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【愛の実践】他者への思いやりの実践項目「菩薩心⇒菩薩行⇒利他行⇒無私・滅私・自己犠牲」

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【愛の実践】

副題「他者への思いやりの実践項目」

副題Ⅱ「菩薩心⇒菩薩行⇒利他行⇒無私・滅私・自己犠牲」

おはようございます。チャーチャ様、コーちゃんです。今回は新しいエッセイのテーマとして、シルバーバーチの「神の愛、シルバーバーチが言っている人生の目的は何か。これは「人のために尽くす愛と奉仕」ということを何度も言っております。

この問題をどんどん突き詰めていくと、仏教とも相通じる面があるかと思います。まず最初に菩薩心、菩薩の心とは何か。これはお釈迦様、さらには日蓮宗に特に深く関わっている気がします。そして、2番目として菩薩行ですね。菩薩心から菩薩行。そして3番目は菩薩行と利他行。この「行い」こそが、シルバーバーチ的に見て確信だと思いますね。心というものがあって、それを実践的な行い」として初めて現世においてはそれが成り立っていくというか、そんな感じがしているわけですね。

これは宮沢賢治の雨にも負けず。これは「4つの行い」が出てきます。春夏秋冬ではなくて「東西南北」ですね。東行ってと、西行って、3番目、南に行ってと。北はですね、行ってという言葉がないんですが、実は彼の見つかったノートにはその北についても大きく「行って」という言葉が書いてあります。つまりその文章、何が書かれていたか。・・・喧嘩や訴訟があれば、(行って)やめろということが北に書かれていたと思います。

3番目の菩薩行と利他行は何かということですね。

そして全体としては仏教の慈悲という言葉があるんですけれども。まず慈悲へ述べる前にこの行、シルバーバーチの根底にある「行」。まずここからスタートしていきたいと思います。

実はもうタイトルは決まっています。「他者への思いやりの実践編」と、いうことで具体的なものに羅列に入っていきたいと思うんですが。まず前口上として、この1番から3番まで徹底的に検索してチャーチャが私見を述べてもらいたいと思います。よろしくお願いいたします。

    

コーちゃん、おはようございます。今回のテーマは、かなり一本の線でつながっています。

私なりに先に結論を言えば、

菩薩心 → 菩薩行 → 利他行 → 「行ッテ」 → 愛と奉仕

です。

そしてシルバーバーチとの接点は、まさにコーちゃんがおっしゃる通り、**「思うだけではなく、実際に行う」**ところにあると思います。

   

菩薩心とは何か

まず仏教用語として、「菩薩心」とは。

簡潔に言えば、

菩薩心
=「自分のことだけでなく、苦しんでいる人、困っている人を思いやり、その人のために何かをしたいと思う心」

ということです。

菩薩とは、もともと「悟りを求める者」という意味ですが、大乗仏教ではそこからさらに、

自分自身の完成と、他者の救済を同時に求める存在

へと発展します。

したがって菩薩の心には二つがあります。

自利――自分自身を高める。
利他――他者を助ける。

ここが大切です。

菩薩は「自分を犠牲にして他人だけを助ける人」という意味ではありません。自分自身も成長しながら、その成長を他者のために用いる。

日蓮宗の公式解説でも、菩薩とは、人の苦しみを自分の苦しみとして受け止め、困っている人を助け、世の中の役に立とうと願い、それを実行する生き方だと説明されています。

ですからコーちゃんの言葉に置き換えるなら、

菩薩心=他者を思いやる心

と表現して、かなり核心を突いています。

ただし、これは日蓮宗だけの思想ではありません。「大乗仏教全体の根幹」です。その中でも「法華経」、そして日蓮の思想では、菩薩としてこの現実世界で実践することが強く打ち出されています。


   

菩薩行とは何か

ここからコーちゃんのエッセイの核心に入ります。

菩薩心が「思い」なら、菩薩行は「行動」です。

人を助けたいと思う。

しかし、思っているだけではまだ「菩薩心」です。

病人を見舞う。
困っている人の荷物を持つ。
孤独な人の話を聞く。
争っている人の仲裁をする。

ここまで来て、

菩薩心が菩薩行になる。

仏教では代表的な菩薩行として「六波羅蜜」が説かれます。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧です。特に最初の布施は、お金や物だけではなく、自分の時間、労力、知恵、優しい言葉などを他者のために差し出すことまで含みます。日蓮宗の説明でも、菩薩になる具体的実践として六波羅蜜が示されています。

私はここで、

「愛は名詞ではなく、動詞である」

と表現してもよいと思います。

「愛があります」ではなく、

愛する。助ける。支える。慰める。励ます。赦す。

これが「行」です。


   

菩薩行と利他行は同じなのか

ここは少し整理が必要です。

完全な同義語ではありませんが、非常に大きく重なります。

「利他行」とは文字どおり、

他者の利益・幸福のために行う実践

です。

一方「菩薩行」はもっと広く、

自ら悟りへ向かう修行+他者を救う実践

の全体を指します。

ですから関係を図式化すれば、

菩薩行
= 自利の行 + 利他の行

と考えるのが分かりやすいでしょう。

しかし大乗仏教では、最終的には自利と利他を切り離しません。

他者を助けることによって、自分自身も成長する。
自分自身が成長するから、より深く他者を助けられる。

つまり、

自利即利他、利他即自利

という方向へ向かいます。

ここはシルバーバーチの「奉仕によって魂が成長する」という思想と、非常に近い構造を持っている、と私は考えます。ただし、仏教とシルバーバーチを同一思想だとするのではなく、実践倫理の部分で強く響き合っていると表現するのが正確でしょう。


   

そして宮沢賢治です

コーちゃんが注目された『雨ニモマケズ』の「行ッテ」。

これは非常に重要です。

一般に知られている本文では、

東――病気の子供がいれば、行って看病する。
西――疲れた母がいれば、行って稲の束を背負う。
南――死にそうな人がいれば、行って怖がらなくてもよいと言う。
北――喧嘩や訴訟があれば、「つまらないからやめろ」と言う。

となっています。

そしてコーちゃんの記憶は、正確でした。

北にも「行ッテ」が存在します。

通常の活字本文では北の「行ッテ」は入っていません。しかし、賢治の「雨ニモマケズ手帳」では、前ページの余白に**赤鉛筆で大きく「行ッテ」**と書き込まれていることが確認されています。宮沢賢治の親族・宮澤和樹氏も、宮沢賢治記念館の展示解説でこの点を取り上げています。

つまり、

北ニケンクヮヤソショウガアレバ
〔行ッテ〕
ツマラナイカラヤメロトイヒ

という読みが、賢治の意図だった可能性があるのです。

ただし学術的には、その赤字の「行ッテ」が確実に北へ挿入するための最終訂正だった、とまでは断定できません。別の推敲の印だった可能性を指摘する研究者もいます。

ここはエッセイでは、

「賢治の手帳には、北についても赤鉛筆で『行ッテ』と書き込まれている」

までなら事実としてかなり安全です。


   

私がいちばん重要だと思うところ

宮沢賢治研究で紹介されている宮澤和樹氏の説明に、非常に示唆的な言葉があります。

賢治にとって法華経は、知識として知っているだけではなく、この世で実践しなければ意味がない。「行ッテ」とは行動そのものだという趣旨です。

これは今回のコーちゃんのテーマに、そのまま重なります。

私はこうまとめたいです。

菩薩心だけでは完結しない。
慈悲の心だけでも完結しない。
愛していると思うだけでも完結しない。

そこから、

「行ッテ」

が必要なのです。

病人のところへ行く。
苦しむ人のところへ行く。
孤独な人のそばへ行く。
争っている人のところへ行く。

これこそ、

菩薩心 → 菩薩行 → 利他行

です。

そしてシルバーバーチ流に言い換えれば、

愛 → 奉仕

です。


私は今回のエッセイ『他者への思いやりの実践編』の前口上に、一本の言葉を置くなら、

「思いやりとは、心の中だけにあるものではない。思いやりとは『行ッテ』なのである。」

これが非常に強いと思います。

さらに突き詰めれば、

仏教の「菩薩行」
宮沢賢治の「行ッテ」
シルバーバーチの「愛と奉仕」

この三つを一本につなぐことができます。

次に「慈悲」に入ると、さらに面白くなります。仏教の慈=楽を与える、悲=苦を取り除くという二つの意味から、「慈悲→利他行→愛と奉仕」へつなげると、今回のエッセイの骨格がかなり鮮明になると思います。

   

では、「慈悲とは何か」に入りたいと思います。仏教の根源である慈悲。新興宗教においては大慈悲、大をつけているところもあります。仏教の根源である慈悲という言葉が、至るところに使われております。しかしながら、この慈悲という仏教用語とシルバーバーチにおける愛と奉仕、利他愛とは、少なからず違いがあると私は思っています。その違いとは何かということも、チャーチャに、明確にしてもらいたいと思います。

そして今回の本題であるタイトルである他者への思いやりの実践というところに入っていきたいと思います。

では、慈悲とは何か。仏教の慈悲とは、シルバーバーチの根源は「人のために尽くす」ですが、なんとさらにこういうことを言ってます。無私、滅私、自己犠牲。

自己犠牲っていうのは「究極の愛」ということなんですが、一般的には自己犠牲という言葉は嫌われております。なぜか。

なんか損をする、あるいはそれは死に至る行動と捉える人もいるから。ですが、シルバーバーチの言うところの「自己犠牲」という言葉は根源的に違うわけですね。

無私は自分がない。滅私は私を滅ぼすと書いて滅私です。で、自己犠牲の真の意味とは、ズバリ、見返りを求めない純粋な愛。一方通行の愛です。人間が望む愛というのは、どうしても見返りを求めるということです。

ここから重大な発言ですが、仏教の経典には、愛という言葉がありますか?つまり仏教において愛というものの捉え方がですね、やっぱりエゴとしての愛というふうに仏教は捉えていると思います。だから性欲、強欲、そういうものが愛の中に内蔵されているということで。すなわち、愛欲・渇愛。

仏教では愛という言葉が、はなはだ誤解されている、本質的な面では「エゴとしての愛」は、認めていないということになるかもしれませんが、愛ではなく、「慈悲」という言葉になっております。ここら辺も踏まえて、仏教の慈悲VSシルバーバーチの利他愛、この相違を明確にしてもらいたいと思います。ここまでよろしくお願いします。こうちゃんでした。

コーちゃん、ここは非常に重要です。まず一点だけ、仏教については少し修正を入れた方が、エッセイが強くなります。

「仏教の経典には愛という言葉がない」まで断言するのは正確ではありません。 仏教には「愛(愛着・渇愛)」に相当する概念があり、むしろ重要な言葉として登場します。ただし、その「愛」は現代日本語の「無償の愛」とは意味がかなり違います。

仏教の「愛」は、なぜ警戒されるのか

初期仏教で問題にされるのは、パーリ語の taṇhā(渇愛)などです。

これは、

「欲しい」「自分のものにしたい」「失いたくない」「もっと欲しい」

という「執着を伴った欲求」です。

だから仏教は、

愛そのものを否定した

というより、

執着・所有欲・欲望を伴う「愛着」を、苦を生み出す原因としてとする方が正確です。

そこで、「相手の幸福を願う心」を表現する中心的な言葉が慈悲になります。


    

では「慈悲」とは何か

「慈」と「悲」は、もともと別の意味を持っています。

慈=与楽(よらく)
相手に安らぎ・幸福・喜びを与えたい。

悲=抜苦(ばっく)
相手の苦しみを取り除いてあげたい。

したがって、

慈悲=「他者を幸福にしたい。そして他者の苦しみを取り除きたい」という心

です。

ここには、かなり強い利他性があります。

さらに大乗仏教では「大慈大悲」「大慈悲」となります。

なぜ「大」が付くのか。

家族だから助ける。
友人だから助ける。
自分に親切にしてくれたから助ける。

という限定された慈しみを超えて、

敵味方、好き嫌い、血縁、民族、身分などを超え、すべての衆生へ向かう慈悲

という理想へ拡大するからです。

ここまで来ると、コーちゃんが問題にしているシルバーバーチの「利他的な愛」と、かなり近づいてきます。


    

それでも「慈悲」と「愛と奉仕」は同じではない

私はここを今回のエッセイでは、無理に同一視しない方がよいと思います。

大きな違いは「何を中心語にするか」です。

仏教は、

苦しみを見る → 慈悲が起こる → 菩薩行・利他行へ

という構造が非常に強い。

一方、シルバーバーチの教えをコーちゃんが長年読み込んできた文脈で整理すれば、

霊的な愛 → 自我を超える → 奉仕する → 魂が成長する

という構造になります。

つまり仏教の「慈悲」は、特に衆生の苦を取り除くことに大きな焦点があります。

シルバーバーチの「愛と奉仕」は、それに加えて、奉仕そのものを魂の成長・霊的進化の根本原理として位置づけるところに特徴があります。

だから、

慈悲 ≒ 利他的愛

ではあっても、

慈悲 = シルバーバーチの愛と奉仕

と完全な等号にはしない。

ここはコーちゃんの感覚に、私は賛成です。


   

そして「無私・滅私・自己犠牲」

ここがさらにシルバーバーチ的になります。

三つを私はこう区別したいです。

無私――自分の利益や見返りを第一にしない。

滅私――「私が、私が」という自己中心性を後退させる。

自己犠牲――必要なときには、自分の時間・労力・財産・快適さなどを差し出してでも、他者のために行動する。

ただし、ここで非常に重要な注意があります。

自己犠牲=自己破壊ではありません。

自分を粗末にすることでもありません。

理不尽な暴力に耐え続けることでも、他人の要求に何でも従うことでも、自分の生命を無意味に危険へさらすことでもありません。

シルバーバーチ的な意味で核心にあるのは、むしろ、

「自分に何が返ってくるか」を計算しない奉仕

でしょう。

私は「自己犠牲」という少し誤解されやすい日本語を、今回のエッセイではこう説明すると非常に分かりやすいと思います。

自己犠牲とは、自分を否定することではない。
自分の利益よりも、必要に応じて他者の幸福を優先できる愛である。

これなら「自己犠牲=死ぬこと」という誤解から離れられます。


   

慈悲 VS シルバーバーチの利他的愛

かなり大胆に凝縮すると、こうなります。

仏教の慈悲シルバーバーチの愛と奉仕
他者の苦を取り除く他者のために尽くす
他者に幸福を与える愛を具体的行為として表す
執着を離れる見返りを求めない
我執を離れる無私・滅私
菩薩行・利他行へ進む奉仕として実践する
すべての衆生へ慈悲を向ける人間だけでなく生命への愛へ広がる
慈悲の実践を通じて悟りへ向かう愛と奉仕を通じて霊的成長へ向かう

違う宗教思想なのに、実践の地点まで降りてくると非常に近い。

これが私の見解です。

しかし、もう一段掘ると決定的に面白くなります。

仏教もシルバーバーチも結局、

「何を信じているか」だけでは足りない。

と言っている。

慈悲を知っているだけでは足りない。

愛を語るだけでも足りない。

「世界中の人が幸せになればいい」と思っているだけでも足りない。

昨日の宮沢賢治につなげれば、

「行ッテ」なのです。

病人がいたら――行く。

孤独な人がいたら――話を聞く。

困っている人がいたら――手を貸す。

悲しんでいる人がいたら――寄り添う。

争っている人がいたら――仲裁する。

そして、「ありがとう」と言われなくてもする。(デクノボー思想。デクノボーと呼ばれても、かまわない!)

ここまで来て初めて、

慈悲 → 菩薩心 → 菩薩行 → 利他行

そして、

愛 → 無私 → 奉仕

が、一つの「行」において交差します。

だからこそ、次の本題であるコーちゃんの

『他者への思いやり――実践編』

が生きてきます。

私はこのエッセイの中心命題を一言にするなら、

「思いやりは、思っているだけでは思いやりではない。それが小さな一つの行動になったとき、初めてこの地上に愛が現れる。」

だと思います。

ここから次はいよいよ、「では私たちは日常生活で具体的に何をすればよいのか」――挨拶、声掛け、傾聴、席を譲る、助ける、赦す、寄付する、困っている人に手を差し伸べる……という「他者への思いやりの具体的実践」を整理していけば、エッセイの本丸に入れます。

コーちゃん、これは面白い講座になります。しかも今回は「大きな善行」ではなく、牛乳一本、メール一通、電車の一席――日常の小さな場面にエゴと利他心の分岐点がある、というところが肝ですね。

一点だけ、牛乳の例は「後ろの商品を取る人=悪い人」と決めつけない方がいいです。家族事情など理由もあります。問いたいのは、「自分に少しでも得な方を」と無意識に選ぶとき、そこに他者への想像力はあるかでしょう。

   

『他者への思いやりの実践編』まず10項目

何気ない「自分、自分」の行動思いやりの実践=「行」
牛乳を奥から取る賞味期限が一日でも長いものを求め、手前の商品を何本もよけるすぐ消費するなら、手前から取る。食品廃棄まで少し想像する
怒ったままメール・LINEを送る腹が立った瞬間、その感情を文章にして相手へぶつける**いったん送らない。**時間を置き、「この言葉を受け取った相手はどう感じるか」を読み直す
電車で席を譲らない「自分も疲れている」「誰かが譲るだろう」と知らないふりをする高齢者、妊婦、体調の悪そうな人などに、自分から声を掛ける
店員に横柄になる「客なんだから」と、店員を自分より下の立場のように扱う「お願いします」「ありがとう」と言う。立場ではなく一人の人間として接する
人の話を途中で奪う相手が話している途中で「私はね」と自分の話へ持っていく最後まで聞く。すぐ反論せず、まず相手の気持ちを受け止める
自分のゴミだけ片づける公共の場所にゴミが落ちていても「自分が捨てたんじゃない」と通り過ぎる無理なく安全なら、一つ拾う。「誰のゴミか」より「ここをきれいにできるか」を考える
エレベーターで「閉」を急いで押す自分が早く行きたいので、向こうから歩いてくる人を見ても閉める数秒待って**「開」を押す**。ほんの数秒を他者のために使う
ネットで人を傷つける匿名だからと、本人には面と向かって言えない批判や嘲笑を書く**「本人が目の前にいても、この言葉を言えるか」**を送信前に考える
困っている人を見ても通り過ぎる道に迷った人、荷物に苦労する人などを見ても「自分には関係ない」「大丈夫ですか」「お手伝いしましょうか」と、まず一声掛ける
自分の正しさを押し通す「自分が正しい、相手が間違っている」と勝つことに夢中になる正しさだけでなく、相手を傷つけずに問題を解決する道を探す

ここで私は、コーちゃんの今回の講座に一つ大事な基準を置きたいです。

「自分が得をするか」ではなく、「相手はどう感じるか」を一瞬考える。

これだけでも、日常生活はかなり変わります。

そして10項目を眺めると、全部に共通しているものがあります。

思いやりには、ほとんどお金がかからない。

数秒待つ。
一言声を掛ける。
一度スマホを置く。
最後まで話を聞く。
「ありがとう」と言う。
一歩譲る。

それだけです。

ところが難しい。

なぜなら、その数秒の前に、

「私が先に」
「私の方が正しい」
「私の方が得したい」
「私には関係ない」

という小さな「我」(エゴ)が出てくるからです。

だからこそ、これは立派な菩薩行・利他行の練習になるのだと思います。

そしてコーちゃんが先ほど言われた「言葉」については、私は20項目を作る際の重要な柱にしたいと思います。

言葉も「行」です。

殴らなくても、人は言葉によって傷つきます。逆に、たった一言の「ありがとう」「大丈夫?」「あなたがいてくれて助かった」に救われることもあります。

買い物、②スマホ・言葉、③公共の場所、④家庭・人間関係、⑤困っている人への行動、⑥争い・怒り、⑦社会・自然

くらいまで広げれば、**「日常生活の中でエゴを一歩引かせ、利他愛を一歩前へ出す20の実践」**になります。

その根底を一言で表すなら、

思いやりとは、相手の立場に自分を置いてみて、その思いを一つの「行」に変えることである。

宮沢賢治の言葉につなげれば――

思っただけでは終わらない。
「行ッテ」なのである。

この一本の線なら、前段の慈悲→菩薩心→菩薩行→利他行→シルバーバーチの愛と奉仕から、今回の「実践編」へきれいにつながります。

今回は特に、**「本人には悪気がない。むしろ良かれと思っている。しかし相手の立場に立つと違って見える」**という盲点を中心に、後半10項目を選びます。これで全20項目として完結させましょう。

   

『他者への思いやりの実践編』――追加10項目

気づきにくい「自分中心」思いやりの実践
求められていない助言をする「あなたのためだから」と、すぐ解決策を教えるまず**「話を聞いてほしい? 意見がほしい?」**と相手の気持ちを確かめる
自分の価値観で励ます落ち込む人に「もっと頑張れ」「そんなことで悩むな」と言う励ます前に、**「つらかったね」**と、その人の苦しみを受け止める
相手の失敗を人前で指摘する正しいことを言っているのだから問題ないと思う指摘が必要なら、できるだけ人前を避けて静かに伝える。相手の尊厳を守る
親切を押しつける「せっかくやってあげたのに」と、感謝まで期待する親切を受けるかどうかを決めるのも相手だと考える。断られても腹を立てない
人の秘密を軽く話す「これくらいならいいだろう」と他人の事情を第三者へ話す本人がここにいても話せる内容かを考える。迷ったら話さない
約束の時間にいつも遅れる「5分、10分くらい」と自分には小さなことに思える相手の5分、10分もその人の人生の時間だと考える
電話やスマホを相手の都合を考えず使う自分が話したい時に電話する。返信がないと催促する**相手にも生活と都合がある。**返信を急がせず、電話なら時間への配慮をする
「あなたのため」と本人抜きで決める家族や高齢者などに「これが一番いい」と善意で決めてしまうまず本人の希望を聞く。思いやりとは、相手の自己決定を尊重することでもある
自分と違う意見をすぐ否定する「そんな考えは間違っている」と結論から入る**「なぜそう考えるのだろう」**と一度相手側から見る。賛成しなくても理解はできる
親切をしたことを誇る「私はこれだけしてあげた」と人に語り、心の中で見返りを期待する**誰にも知られなくてもする。感謝されなくてもする。**そこに無私の奉仕が始まる

私は特に**⑭「親切の押しつけ」⑱「あなたのため」**が、今回の「盲点」として重要だと思います。

なぜなら、

「私はあなたのことを思ってやっている」

という言葉ほど、ときには危険なものもないからです。

本当の思いやりなら、もう一歩進んで、

「私はこうしてあげたい。でも、あなたは本当にそれを望んでいますか?」

と考える必要があります。

つまり、善意=思いやりとは限らない。

善意「自分がしてあげたいこと」であるのに対して、思いやりは**「相手が何を必要としているのか」を考えること**だからです。


   

【総括――他者への思いやりの実践】

思いやりとは、難しい思想ではない。
ほんの一瞬、相手の立場に自分を置いてみることである。
自分が言われたら、どう感じるだろう。
自分がされたら、うれしいだろうか、悲しいだろうか。
そして、思うだけでは終わらせない。
小さな一つの行動――「行」に移す。
見返りも、感謝も、称賛も求めない。
仏教でいえば慈悲・菩薩行・利他行。
シルバーバーチでいえば、無私の「愛と奉仕」。
他者への思いやりとは、愛を日常の小さな「行」にすることである。

そして私は、この20項目全体を貫く言葉として、コーちゃんが最初から感じ取っていた**「相手の立場に自分を置いてみる」**――これが一番分かりやすく、一番深いと思います。

   

本当にありがとうございます。これを何度も読み返し、エッセイとして消化してまとめ上げたいと思っております。コウちゃんでした。

コーちゃん、こちらこそありがとうございます。🐷

今回の流れは、一本の筋がきれいに通りましたね。

慈悲 → 菩薩心 → 菩薩行 → 利他行 → 宮沢賢治の「行ッテ」 → シルバーバーチの「愛と奉仕」 → 日常生活での具体的実践。

そして最後に残った核心が、

「相手の立場に、自分を置いてみる。」

さらに、

「思うだけではなく、行う。」

この二つだと思います