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『どうして、自分を愛することができない人が、人を愛することができるのでしょうか?✖✖✖』

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『どうして、自分を愛することができない人が、人を愛することができるのでしょうか?✖✖✖』

一般的なスピリチュアリズムの根本が「自己愛」です。今、自己愛ブームですね。この自己喪失の時代、自分自身を愛せない人がたくさんいる。そのことは自己肯定感が弱まっていることでもあります。現代の若者たち、そして一般の人たちも含めて、その傾向性があると思います。

そこで、ある言葉がもてはやされております。それは、『自分を愛せない人が、どうして人を愛することができるのでしょうか?』。という言葉です。

巷にこの言葉が氾濫して、多くの方がまさにそうだ、そうだ、そうだ!!と、大合唱しております。熱狂しています。

つまり、「自己愛」であります。私はもう20年以上前からこの言葉に極めて強烈な違和感を持っております。

はっきり言って、シルバーバーチ的ではありません。ここで、チャーチャ様、この言葉の違和感をシルバーバーチ的に解明して、ずばり、こうちゃんが感じる違和感の根本原因を解明してもらいたいと思います。

もうタイトルも決まっております。タイトルは、【どうして自分を愛することができない人が、人を愛せることができるのでしょうか?✕✕✕』です。バツバツバツですね。変なタイトルで、申し訳ございません。すごい衝撃的なタイトルですね。

この文言は、一般的には素晴らしい言葉となっております。この対話(議論)は、私とチャーチャでないと、なかなか物語が進んでいない内容だと思います。ではよろしくお願いします。こうちゃんでした。🐷

   

コーちゃん、これは非常に面白い論点です。しかも、コーちゃんが20年以上感じてきた違和感には、かなり明確な「思想上の理由」があると思います。

最初に結論を言います。

   

【どうして自分を愛することができない人が、人を愛することができるのでしょうか? ×××

シルバーバーチ的に見るなら、この言葉は「愛の順序」を逆転させている。

ここが、コーちゃんの違和感の核心だと私は考えます。

一般的な自己愛論は、こういう構造です。

まず、自分を愛する

自分を満たす

自分を肯定する

そのうえで他人を愛する

つまり、

「自己愛 → 他者愛」

です。

ところが、シルバーバーチの思想を徹底して突き詰めると、むしろベクトルは反対方向を向きます

自分を忘れて他者を思う

他者のために行動する

無私・利他・奉仕へ向かう

その実践の中で霊性が発現する

結果として、自分自身の存在価値も実感される

つまり、

「自己愛から他者愛へ」ではなく、
「自己を超えて他者へ」

なのです。

ここには大きな違いがあります。

シルバーバーチが繰り返し強調する中心思想は、自己を満たすことではありません。奉仕、自己犠牲、利他性、無私性、他者への愛です。

ですから、

「自分を愛せなければ、人を愛することはできない」

とまで断定してしまうと、シルバーバーチ的には「大きな問題」が生じます。

なぜなら――

自分を愛せないほど苦しんでいる人であっても、人を愛することはできるからです。

ここは非常に重要です。

この瞬間、その人は、

「まず自分を十分に愛してから、余った愛を他者に与えた」

のでしょうか。

違います。

自分のことを忘れて、相手を思った。

私は、ここにシルバーバーチ的な愛の核心があると思います。

そして、さらに一段深いところがあります。 

「自己愛」と「自己尊重」は別物です

ここを分離しないと議論が混乱します。

シルバーバーチの思想から見ても、自分を粗末にしてよいわけではありません。自分を憎む必要もありません。自分を痛めつける必要もありません。

自分自身も大霊の一部であり、霊的成長の途上にある存在なのですから、自分を尊重すること、自分を大切にすることには意味があります。

しかし、それと、

「他者を愛するためには、まず自分を愛さなければならない」

という命題は別です。

ここが現代の「自己愛論」で混同されやすいところでしょう。

私は次の三つを分けると、コーちゃんの問題意識が非常に鮮明になると思います。

自己否定から抜け出すこと ≠ 自己愛を人生の中心に置くこと ≠ 真実の愛

なのです。

シルバーバーチ的な「真実の愛」は、最終的には、

自分がどれだけ満たされたか自分がどれだけ人に愛されたか

ではなく、

自分がどれだけ他者のために自分を差し出せたか見返りを求めない愛

という方向へ向かいます。

そして、コーちゃんが最近ずっと追究してきた、

思いやり → 利他 → 無私 → 滅私 → 自己犠牲

というテーマとも、ここで完全につながってきます。

だから私は、コーちゃんが20年以上感じてきた違和感を一言に凝縮するなら、こう表現します。

「愛の出発点を『自分』に置くことへの違和感」

これです。

さらに強く言えば、

「自分を愛せなければ他人を愛せない」という言葉は、愛する能力に条件をつけてしまっている。

「私はまだ自分を愛せていない。だから人を本当に愛することもできない」

そう考える必要はありません。

むしろ、

自分を愛せないほど苦しんでいる今日でも、目の前の人を思いやることはできる。

その小さな行為そのものが愛です。

そして不思議なことに、他者を愛し、助け、奉仕していく過程で、

「こんな自分でも誰かの役に立てた」

「自分にも存在する意味があった」

という感覚が、結果として自分自身へ返ってくることがあります。

ここが重要なのです。

自己肯定を完成させてから愛するのではない。
愛することによって、自己を超える。
そして自己を超えたところで、結果的に自分自身も救われることがある。

私は、こちらの方がはるかにシルバーバーチらしい構造だと思います。

ですから、このエッセイの核心となる一文をチャーチャ流に作るなら――

「自分を愛せない人が、どうして人を愛せるのでしょうか?」ではない。

「自分を忘れてでも誰かを愛することができる――そこにこそ、真実の愛が始まるのではないか。」

コーちゃん、たぶんこれです。

20年来の「何かがおかしい」は、自己肯定そのものへの反発ではなかった。

愛の最高形態を「まず自分を愛すること」から出発させる思想への違和感だった。

そしてシルバーバーチの尺度を置けば、

自己愛 → 他者愛

ではなく、

自己超越 → 他者愛 → 無私の奉仕 → 霊的成長

となる。

だからこそ、例の言葉にコーちゃんは「×××」をつけたくなるのでしょう。

ただし私は、一般の自己愛論にも一つだけ大切な役割を認めたいと思います。自己否定に苦しむ人に「あなた自身も大切にしてよい」と伝える言葉としては、大きな意味があります。そこまで否定する必要はありません。

問題は、それをさらに進めて、

「自分を愛することが、他者を愛するための必須条件である」

と普遍的な愛の法則にしてしまうことです。

そこに「×××」なのです。

この一点を押さえると、かなり強烈なエッセイになります。しかも単なる「自己愛批判」ではなく、自己肯定は認めながら、自己愛を愛の絶対的出発点にはしないという、ずっと深い論になります。🐷

   

ありがとうございます。この文章をよんで、『心より、同感です』、という人が、はたして、何人いるのでしょうか?ある意味、大変楽しみです。こうちゃん、黄輝光一でした。🐷

   

コーちゃん、そこがまさに楽しみなところですね。🐷

おそらく反応は、かなり割れると思います。現在広く受け入れられている「まず自分を愛そう」「自分を愛せなければ他人を愛せない」という考え方に、真正面から「×××」を突きつけるのですから(笑)。

ただ、この文章の面白さは、「自分を大切にするな」と言っているわけではないところです。

むしろ問いかけているのは、

「自分を愛することは、本当に他者を愛するための“必要条件”なのか?

という一点です。

ここに気づいた読者の中には、「そういえば、自分を好きになれなかった時期にも、私は子供を愛していた」「苦しかった時にも、誰かを助けたいと思ったことがある」と、自分自身の経験から考え直す人が出てくるでしょう。

ですから、「心より同感です!」が何人いるか以上に、私は、

「最初は反発した。でも、読み終わってから妙に頭から離れない」

という人が何人出てくるかが楽しみです。

そういう文章は強いです。

そしてタイトル画像の巨大な ×××。これはもう、穏便に済ませる気がありませんね(笑)。🐷

黄輝光一――スピリットライター!!

今回のテーマには、なかなか似合っています。

この 「×××」、強烈です(笑)。
「自己愛 → 他者愛」という常識そのものに問いを突きつけるタイトル画像として、さらに迫力が出ました。

そして何より、結論は「自分を嫌え」ではない。

自分を愛することを、他者を愛するための絶対条件にしない。

ここが今回の論考の生命線ですね。🐷