黄輝光一
すがすがしい朝、小鳥の声で目が覚めた。
窓を開けると、前の家の満開の桜の木の周りに、二羽のメジロが、円を描くように仲睦まじく追いかけっこをしている。
すると、真向かいに住んでいる90歳の早起きおじいさんが、愛猫を左手に抱いて庭に出てきた。
私は、二階のベランダで、白い歯磨き粉と歯ブラシを口に入れたまま、昨日から干したままのグレーのジャージーを、見つからないように取り込もうとした瞬間、見つかった。
下からおじいさんが言った大きな声で「おはよう!」と・・・
これは、私とお向かいさんとの、4月の桜の季節、うれしい何気ない出来事。
だが、今日は違っている。
いつも、いつもは違っている。
早朝5時、3個セットした時計が、一斉に、けたたましく「起きろ起きろ」と叫びつづけた。
小田急線、新百合ヶ丘駅の始発電車をめざして、すべての情景と、すれ違うすべての人、すべての鳥、すべての犬、すべての猫、すべての動物たちも完全シカトして、一目散に髪を振り乱して、ホームに駆け込む。「余裕」という言葉は、とうの昔に忘れてしまった。「とき」との闘い。これが毎日毎日繰り返される、飽きもせず。仕方なく。
一度、大遅刻をして、店長に平謝りした。「ごめんなさい」
そして、もうひとり「いつもの人」にも。
彼は言った、「昨日はどうしたの、ずっと待っていたんだよ」とほほ笑んだ。
この男は、私のシフトを知りたがっている。
もちろん、専属とはいえ、朝シフトを外されることはあります、そんな時、彼は必ず聞く
「三輪さん今日は、お休みなの?」
私のこと意識している?
私に気があるのかな。60歳越えのオヤジが・・・(笑)
まあ、私は、最初の面接の時「朝は強いです」と言ってしまった。それがいけなかった、朝に強い「三輪さん」になってしまった。もう、朝シフト専属になってしまった。大悲劇だ。深夜に刺激的ユーチューブを遅くまで見れなくなった。友達との深夜ゲーム、チョ―大好きな「刀剣乱舞」、いかに没頭していても、勇気をもってそこそこに切り上げなくてはならない。遅刻、無断欠勤は社会人として許されない。
「いつもの人」は、この喫茶「フローレンス」の大切な常連さんだ。
私は5年前からここでバイトをしている、初出勤の日にも彼はいた。朝7時の最初のお客様が彼だ。いつもいつも一人でやってくる。
第一印象は、今でも忘れない、テカテカ頭の「つるっパゲ」、頭が大きくてやや小太りだ。でも、スタイルは抜群だ。
入るや否や、必ず、はっきりと大きな声で「おはようございます」と言う。他のお客様は誰も何も言わない。私も、朝一の最高の笑顔で「おはようございます」と返す。
そして、今日の一日のすばらしい朝が始まる。
フローレンスでは、原則、私は無言だ。「いらっしゃいませ、デニーズにようこそ」なんて言わない(ちょっと、古いですね)。「ありがとうございます」。基本的なマニュアル以外では、朝から、無言で注文を聞き、無言でお金(カード)をいただき、無言で返す。私語、無駄口はない。まあ、もちろん色々と話しかけてくるお客様はいますが、ここは、朝は7割はサラリーマンです。ほとんどの人が、時間に追われ急いで食べて去っていく。ここは店舗面積は広くないので他人に聞かれたくない商談には向かない。あわただしい貴重な昼休み、ひと時の癒しを求めて一杯のコーヒーを飲む。
東京、おしゃれな憧れの街、自由が丘。いやしの喫茶「フローレンス」です。
「いつもの人」は、いつものように笑顔で、「おはようございます」と言う、
そして、次には、必ず「いつもの」と言う。これが彼の一連のリズムです。
「いつもの」というのは、コーヒー付きの「モーニングBセット」だ、彼はBセット以外を頼むことはない。だから、「いつもの」なのです。
Bセットは、ガバオ風、赤パプリカ入りの、ホカホカ玉子ツナサンド。
Aセットは、たっぷりレタスの辛子マヨのウインナーホットドックだ。
この繰り返しが5年間続いている。ここは、開店して12年目。店長は3年目。いつもの人は、開店当初からの大切なお客様かもしれない。
彼は、いったい何者なのか。
1年前、当店の朝の名物男「いつもの人」が、突然来なくなった。
1か月過ぎても現れなかった。本当に心配した。朝から調子が出ない、リズムが大きく狂った、私はその時、気がついた「いつもの人」はあたたかい癒(いや)しの人だと。
3か月が過ぎた、店長は、「引っ越したんじゃないの」といった。M男は、「間違いなく、死んだね」と言った、まったく、ひどいことを言う!私はマジ怒った。
彼は、サラリーマンではない。だから転勤はないはずだ。結果は、4か月後に分かった、一回り小さくなった激やせした彼が現れた。「おはようございます」と言った。そして「いつもの」といった。すごくうれしかった。
「すい臓がんで、入院していました。まだ、生きてま~す。元気で~す」と笑った。
生きていてくれて本当によかった。M男のばかやろう!
「ジーパンがぶかぶかになったよ」といった。
すい臓がんって、どんな病気なんだろう、人生経験の浅い私にはよく分からなかった。店長は、とても怖い病気だよと言った。
いつもの人は、ネームを見て私の名前を知っている。
でも、私は彼の名前を知らない。苗字ですら。一日100人以上のお客様が来ても、名前を知っている人はほとんどいない。これって当たり前なことですがある意味不思議なことかもしれない。お名前を聞く必要はありません。別に知りたくもありません、ご自由に。知らんぷりが、心地いいということなのかな。
いつもの人は、すごくおしゃれだ。必ずデニムの無地のジーンズと高級そうなセンスのいいジャケットをひっかけている、テカテカ頭も、それがファッションの一部であるかのようにも見える。
彼は、必ず窓際の彼の指定席に座る。まれにそこに座れない時がある、明らかに動転している、もの欲しそうにその席をしばらく見つめている、空くはずはないのに。そして、食事が終わると、すぐ文庫本をミニバックから取り出し読む。いつも、同じパターンである。変わらない。しかも、30分以内に必ず立ち去る。いったいこれからどこへ行くんだろう。これも不思議である。お店には、長い時間居座る人もいるし、かと思えば、あっという間にコーヒーを飲み干して、5分で帰る人もいる。そんなに急いでどこに行く。現代人は大忙しだ。癒されるどころか・・・いったいなんなの?と思うこともある。
いつもの人が、どんな職業に就いているのか、デニムのジーンズが似合うから、ファッション関係の人なのか、何かの自営業なのか、悠々自適の遊び人なのか、まったく分からない。ましてや、どんな人生を歩んできたかなんて・・・。
でも、私には独身に見える。年齢は、65歳ぐらい。この近くに住んでいる、それは間違いない。おしゃれでどことなく気品がある、温厚な人だと思う。本を読んでいる時になぜかのけぞることがある。単なる癖なのか、背筋を伸ばす屈伸運動?ちょっとした朝の体操のつもりなのか。
いつもの人を、一度だけお店以外のところで、見かけたことがある。
私は帰りは「武蔵小杉駅」で乗り換えている、そして時々ぶらりと降りる時もある、つれづれに散策していたら、いい感じのお店を発見。自家焙煎の「木戸口(きどぐち)珈琲」。入ったらすぐ、カウンターの男が目に飛び込んできた。斜に構えた後ろ姿だったが、すぐに彼だと分かった。今日は平日、午後3時。本当にびっくりした。ここへも、彼は毎日来ているのだろうか・・・。
驚いたことにノートパソコンに文字を打ち込んでいた。いったい、何をしているのだろうか。小説を書いているのだろうか・・・ひたすら打ち込む真剣そのものの姿に、タイミングを逸した、結局話しかけることはできなかった。
実は、一度「いつもの人」に私から話しかけたことがあります。あの喫茶店の件から半年ぐらいたった頃、朝のフローレンスには珍しくだれもいなかった。10分ぐらいたって文庫本を読みだしたとき、思い切って聞いてみた。
「面白いですか」
「おもしろいですよ」
「なにか、おすすめの本はありますか?」
彼は、おすすめの本を、紙ナプキンに書いてくれた。
題名は「輝く朝」 著者S氏 N文庫。
家に帰ってから、検索した、Wikipediaを見た。
最初に、飛び込んできたのは、写真だった。
えっ、うそ~!いつもの人は、作家、Sさん?
もう一度見た。違っていた。ツルツル、ピカピカではなかった。髪がふさふさしていて、すっきりした顔立ちで若かった。
著作物を見ると、たくさん書いている人のようだ。
すべて難しそうな本に見えた。私が読んで大丈夫かな、心配になったが、思い切ってアマゾン「本」で「輝く朝」をクリックした。
2週間後、彼に報告した。
「めちゃ、おもしろかったです」
「えっ、読んだの」
「すごく、ロマンチックなファンタジーでした!」
彼は、満足そうに嬉しそうにうなずいた。これが、彼との唯一の会話らしい会話だった。もっと、いっぱい感想をいいたかったが、その日は特に忙しかった。
「輝く朝」は、朝をテーマにした7編からなる短編小説。
第一話は「さわやかな朝」、第二話「眠れない朝」第三話「けだるい朝」第四話「いつもの朝」第5話「終わらない朝」第6話「キセキの朝」そして、最終章は「輝く朝」。もう、すべてが泣ける、感動的な、めちゃ奇跡のようなお話だった。一つ一つの感想も、詳しく彼に話したかった。でも、それはかなわなかった。
この本は、大人のファンタジー。女性向きだと思う、でもこの本を選び読む彼は、間違いなくロマンチックなおじさんだと思った。
大事件が起きた。お店のコーヒーマシーンが、珈琲用とカフェラテ用の二台ともおかしくなった。コーヒーのない喫茶店なんて、ありえない。なんとかしようと店長も必死にメカと格闘したが、結局ダメ。業者に来てもらってやっと直った。昼時の一番忙しい時に約3時間、コーヒーなしの喫茶店になった。店長は平謝り、私も謝りっぱなしだった。
そして、翌日、もう一つの事件が起こった。
「いつもの人」は、珍しく、朝来なかった。たぶん大切な用事、きっと手術後の定期健診かな。その日の私のシフトは11時までだった。モーニングは11時まで、ぎりぎりに駆け込んできた男がいた。まさに、仕事を終え上がろうとした時であった。
ビシッとした上下のスーツにあたたかそうな茶色の毛糸の帽子を深々とかぶって、こう言った「いつもの」と。
いつもの人は、実は3人いた。朝一番のデ二ムのジーンズの彼、11時ごろに来るスーツのサラリーマン。たまにしか来ないのに自信ありげに大きな声で「いつもの」と叫ぶ、でぶっちょの高齢者。私は、いつものAセットを、持って行った。
「いつものだよ」
「ええ・・・」
まじまじと見た、それは11時の男ではなく、「いつもの人」だった。
「忘れちゃったの?」と言われた。
「すみません」少し笑いながら言った。
作り直してBセットをお持ちした。もう一度「本当に、申し訳ございませんでした」といった。でも、なぜか返事がなかった。無視された。
私には怒っているように見えた。いつもの笑顔はなかった。不機嫌そうに見えた。
そして、それから家に帰った。ゲームをして疲れて昼間からふて寝した。5時ごろ、突然店長から電話があった。
「三輪君、さっき、本部から電話があって、お客様から苦情があったんだ」
「それ、私のことですか?」
「誰だかは、分からない。従業員の態度が悪いと、相当怒って、一方的にしゃべって、かってに切ったそうなんだ」
「思い当たることある?」と聞かれた。
私は、「えっ、分かりません・・」と答えた。あの日、午前中のシフトは3人いた、午後も別の人が2人入った。だが、私には思い当たることがある。もう、ショックだ。信じられないほどショックだ。なぜなんだ、どうしてなんだ。ああ、間違いであってほしい。これは絶対に間違いだ。ありえない。ありえない。
朝が来た、小鳥はさえずっていない、犬もいない、猫もいない、風も、止まったままだ。重く沈んだ早朝。
いつものように、始発に乗った。厚く曇った空は、どうすれは晴れるのだろうか。どうなれば、雲は離散して晴れるのだろうか。もはや、はっきり確認するよりないと思った。
朝7時、いつもの人が来た。
「おはようございます」
「おはようございます」
「いつもの」と彼は言った。
そして、にっこり笑った。
確かに、確かに、笑った。
「きのうは、本当にわるかったね。気分悪くしたでしょ。病院の帰りに寄ったんだよ、
ちょうと、落ち込んでいたんだ、検査結果が悪くてね。でも、大丈夫、もう、吹っ切れました。大丈夫。元気です」
本当に、いいひとだ。
ああ、取り越し苦労だった。よかった。
自分のことだけ考えていたことが、情けなかった。
店長には、「思い当たる人はいません」とはっきり伝えた。
店長は本当に大変だ。千葉の柏から1時間半かけてやってくる。以前の店舗は、近かったけど、シフトがどうしても来れない時、自ら行かなければならない、もう悲鳴をあげている。肩書は立派でも、責任重大。「ああ、バイトにもどりたい」とこぼすこともあった。
でも、我々は運命共同体。シフトしかり、苦情しかり、何があるか分からない。でも、みんなで協力して乗り越えなければならない。
それから、いつもの人とは、急激に親しくなった。もちろん、片言の会話しかないが、それは私にとって、励まされる、温かいうれしい貴重な短い時間だった。
一度、助けてもらったことがあった。
朝一番に、いつもの人を押しのけて、あわただしく駆け込んできた、初めてのお客様。
その人に「Aセット」をお持ちしました。
しかし、
「これじゃないよ、俺は急いでいるんだ!」と大きな声で言った。彼は、メニューの「Bセット」を指さした。仕方なくカウンターにAセットを持ち帰った。その時、いつもの人がやって来て小声で言った、「これは俺でいいから、Bセットをすぐに彼に持って行って」と。
彼が帰った後、「いつもの人」は、私に言った。「彼は、間違いなくAセットを頼んだよ」と。彼は、初めてAセットを食べた。本当に申し訳なかった。でも、うれしかった・・・
しかし、
思い出は、長くは続かなかった。
30度を越すカンカン照りの猛暑が続いた、8月5日、セミたちが一斉に高らかに大合唱をする、その日から。
彼は、また突然いなくなった。
何も聞かされていない。
何も言えなかったのだろうか・・・
何かあったのだろうか。
店長も、元気に軽口をたたくM男も、何も言わなくなった。
夏が過ぎ、秋の紅葉がひらひらと散って、雪が降り、凍えるような寒い日々も過ぎていった。
いつものように、早朝、歯ブラシを口に入れたまま、二階のベランダに出た、お向かいさんの桜の木は、もう満天の満開だ。90歳を超えたおじいさんが愛猫を左手に抱いて庭に出たきた。そして二階に向かって「おはよう」と言った。
私も、「おはようございます」と返した。
そして、また、暑い夏が来た。武蔵小杉のお気に入りの木戸口珈琲には、フローレンスの帰りに時々行っている。
その日も、コーヒーのモカをたのんで、いつもの「輝く朝」を取り出して夢中で読んだ。もう5巡目だ。
後ろに人の気配を感じた。
振り返った。
「お元気ですか?」
「いつもの人」だった。
「いつも、僕の本を読んでくれて、ありがとう」
そして、にっこり微笑んだ。
【2021年8月、一部加筆修正いたしました】
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