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「幸せ論」を、論じる前に、大前提にして最重大の「霊的真理」がある!

エッセイ
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人生の『死生観』を極めずして、「幸福」が何たるかは、分かろうはずがない。

① 「自分が、何ものか」が、分からずして「しあわせ論」を論じても意味がない!

② 99,999%の人が「自分とは何か」を、知らない。

③ 「どうせ死ぬんだから」あるいは「死んだらお終い」と結論づける者に、誠に残念ながら、幸せの本質の「真理」には到達できない。

⇒3歳で亡くなった幼児の幸せ論。交通事故で亡くなった10歳児の幸せ論。難病の『早老症』(コケイン症候群)亡くなった16歳の幸せ論。

④ 「霊的真理(神の摂理)が分からないと、まったく前にすすめない!分からない人を

霊的無知」という。

膨大なる「知識」(物的知識)と「教養」がありさえすれば、「真理」に到達できるというものではない。

⑤ 物的知識と霊的知識は、大違い!⇒唯物史観。

一般常識⇒物的知識⇒科学的知識⇒「霊的知識」

では、霊的知識とは何か、 

 「神の摂理」を知る

Ⅱ 永遠の生命(魂は不滅)⇒死んだら不幸なの?⇒⇒死は魂の解放、本当の自由)

Ⅲ 人は神の子(死んだらゴミになるわけでも、無になるわけではない)

Ⅳ 神の公正は絶対である(人生は、理不尽ではない・諸行無常でもない)

Ⅴ カルマの法則(原因と結果の法則・因果律)⇒幸と不幸とは。

Ⅵ 宗教とは「人のために尽くす」(自分のためでない)

Ⅶ 人生の目的「人を幸せにすること」⇒自分が幸になることではない!!

これらすべては、従来の唯物論的観点の「幸福論」を根底から覆す「お話」である。

科学万能を信じ、物質世界にどっぷりつかった人には、本当の「仕合せ」は分からない。

⑥ 宗教における「信じる者は救われる」は、正しいが、「何を信じるか」が大問題である。

⑦ ほとんどの宗教は、幸せは「信仰」によってもたらされると言われるが、

その信仰の対象となる『神』は、本物の『神』ですか? 偽メシアの出現。

⑧ 霊的無知の人を、シルバーバーチが「悲しんでやってください」という言葉の意味は。

そういう人達も、いつか分かる時が来ます」とは。

⑨ 「人間は、なぜ生きる」親鸞聖人が到達した「真理」とは⇒他力本願(なむあみだぶつ)

⑩ 日々の生活の中で、『神』を意識してますか?『神』に祈りを捧げていますか?

⑪ 1万冊の本を読んでも、実体験をなくしては、「真理」に到達出来ない。

人生とは「実体験型アドベンチャーワールドだ!

「艱難汝を玉にする」「苦はありがたいこと」「七転八倒」⇒「魂の目覚め」

⑫ 私たちの幸不幸の観点は、どうしても肉体がある以上「物的観点」から判断せざるを得ない、悲しい現実がある。

⑬ 幸不幸を決める「カルマの法則(原因と結果)」

不幸になるのは「原因」がある!!

しかも、重大なことは、「霊的観点」から見ると、不幸は必ずしも「不幸」とは言えない!

『シルバーバーチは、この世的な視点で、幸不幸を見るのではなく、霊的視点から見ることを私たちに説いている。このような霊的視点から見れば、不幸な人生が霊的に見れば「幸多い人生であった」ということもあり得る。地上的な意味での幸せになることが、地上人生の目的ではないからです』【須江克則氏談】

霊的視野で、すべてを見よ!!」

★  ★  ★

では、ここで、新ためて「幸福」とは、何ですか?と問いかけます。

原点に戻って、

「人間は幸せになるために生まれてきた」?

⇒自己中心主義⇒利己主義⇒エゴ⇒「自分さえ良ければいい」

「人生の目的は(自分が)幸せになるためにある」?

人生の目的は「霊的成長」!

「本当の幸せ」とは「霊的成長(魂の進化・向上)」にある。

シルバーバーチの言葉

【ガザ地区。戦時下の人たちへ】

同じこの地球上に身を横たえる場所もなく、星空の下で寝なければならない人が大勢いるのです。風雨にさらされている人が大勢いるのです。その日の食べ物にすら事欠いている人がいるのです。

そういう現実のもとで、あなたは今の自分の身の上について神の向かって不平を言う資格があると思われますか。

生活は「行い」だけで成り立っているのではありません。「言うこと」も「思うこと」も生活の一部です。行為だけが大事と思ってはいけません。もちろん「行為」が一番大切です。が、口にする言葉も心に思うことも、あなたの一部です。その思念がコントロールできずに、それに振り回されている人間が多いのは悲しいことです。

大切なことは魂に感動を覚えさせてあげることです。

人間は大ていの場合、大霊から授かっている神性の炎が小さく弱くなっております。それを大きく燃え上がらせてあげるのです。その体験の中から新たな悟りが生まれます。そういう体験をさせてあげるために特別製の聖衣がいるわけではありません。特殊な養成所に通う必要もありません。ひたすら人の幸せを願い少しでも霊的資質を発揮する生活を心掛け、いつでも霊力の通路として使用してもらえる態勢を整えておけば、それでよいのです。

いったいあなたとは何なのでしょう。ご存じでしょうか。

自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。

あなた方は今この時も霊的世界に生きているのです。物質界での生活は、永遠の人生におけるほんの束の間の時にすぎません。

世間でいう「成功者」になるかならないかは、どうでもよいことです。

この世的な成功によって手に入れたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは、自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると信じるものに目をつぶることなく、本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。

地球は、学習のために通う「学校」です。その学習は、比較対象の体験による以外にはあり得ません。日向と陰、嵐と凪、愛と憎しみ、善と悪、健康と病気、楽しみと苦しみといった相反する体験を通して学習していくのです。相対的体験と、そのなかでの試行錯誤の努力を通して、魂が磨かれていくのです。

霊的成長をおろそかにして金儲けにうつつを抜かしていると、そちらの世界では金持ちと言われても、こちらの世界では哀れな貧しい魂になってしまいます。

地上界で大人物と言われた人が霊界でも大人物と言われるわけではありません。こちらの世界での偉大さは、魂の偉大さ・霊性の高さ・奉仕精神の豊かさで計られます。

これらは物質世界での輝きが消滅した後も末永く存在し続けます。

階級・肩書き・職業・肌の色―こんなものが大霊を前にして何の意味がありましょう。真に誇れるもの、真の気高さは魂にかかわるもの、霊にかかわるもの、精神にかかわるものです。それこそが永遠の実在なのです。

世俗的なものはいずれ消滅するのです。束の間のものは、しょせん束の間の存在でしかありません。しかし、霊的実在は永遠です。移ろいやすい物的所有物を絶対と思い込んでいる人は、影を追い求めているようなものです。霊的真理を求めている人は、真に自分の所有物となるものを授かるつつある人です。自信をもって前進なさい。

霊的知識―大霊の宝石を探し求めなさい。

地上世界で、ありがたられ崇められてたすべてが、過去のチリとなり果てたあとは、永遠の霊的実在のみが残り続けるのです。

いつどこにいても人のため、世の中のため、人類のためを心がけるのです。

自分を忘れるのです。ケチくさい打算の世界に超然としておれるようでないといけません。授かった能力を最大限に発揮して人のために役立てるのです。

地上的観点から、つまり物質的観点からのみ人生を眺めれば、病弱な身体をもって生まれた人は、健全な身体をもって生まれた人よりも物的には「不幸の要素」が多いとと言えるのでしょうが、その意見は「霊」については当てはまりません。

身体が病弱だから「霊」も気の毒で、身体が頑健だから「霊」も豊かであるという方程式は成り立ちません。

実際にはむしろ宿命的な進化のための備えとして、多くの痛みや苦しみを味わうことによって霊が豊かになるという考えの方が正しいのです。

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