私の心に革命を起こした原点図書(私が中学1年、13歳の時に読む 感動して何度も読みました)
父から読むように言われたわけではなく、近くの本屋さんで買い求めた本、それは、その後の私の人生を根底から大きく変えた、こころの原点の本です。
それから、更に陽明学〔16歳の頃〕を学び、20歳の頃にはすでに「自己肯定感」100%のゆるぎない自分になりました。まさに哲人青年となりました。
ただし、その頃の私の不治の病「死恐怖症」〔幼少の頃からの)が治って訳ではありませんが、何度もこの本を読むうちに、かなり心が癒され勇気づけられたのは確かです。ズバリ、今この本をもう一度読み返してみると、とズバリ「メンタルマジック」「メンタルトリック」「信念の魔術」(すべて心の持ち様)といえますね。
この本は、昭和39年(1968年)に、八幡俊氏によって書かれました。当時、話題になった新刊本で、かなり売れたようです重版57回。
今回、60年ぶりに、もう一度真剣に読み直してみました。私の読後感想です。そして今現在、「シルバーバーチ」と邂逅した自分が、両者を比較してはっきり感じる差、「結論」は!! 〔ズバリ、後半に書いてあります〕
【「自分を強くする本」のポイント】
【前口上】
① 吹けば飛ぶ!そんな人間だからこそ
② 精神力が、不可能を可能にする
③ 二分の一の確率があるなら、あなたは「やる」それとも「とどまる」
④ それは、無謀なる行為なのか⇒気力が、成功へ導く
⑤ どうせ駄目だと・・・やる前から諦めていないか?
⑥ 精神力の差によって結果は違う。
(千代の山と栃錦のお話)⇒10番に1~2番しか勝てなかった栃錦が・・・
現代なら、14日目に大けがをした尊富士が、強行出場し、勝って優勝した。それはなぜなのか?・・・
⑦ やるかやらないかは、全人生の成否さえも決します!
⇒実生活は、すべて、すべて決断が迫られている⇒50%なら「やる」が正解。失敗をおそれない⇒「失敗」は次なるチャレンジへの大きな糧(実行の判断基準となる)
⇒※ただし、一番問題なのは、その「やる内容」である「なにをやるのか、その対象である」と私は思います。
⑧ いろいろな人生の場面で、我々はつねに精神の強弱を問われている
⑨ 肉体と精神を比較してみると、「生きる」という観点からは、肉体より精神のあり方の方が、はるかに重大であることが分かる
⑩ すべては、精神の強弱が決める
⑪ あなたは、「精神の虚弱者」それとも「精神の健康優良児」ですかと、彼は問いかける。
そして、ひ弱な「ヒヨ子」さんと、決める時には決める「キナ子」さん、お二人のまったく違ったタイプの人生を例に出して、具体例として述べている。
【心のバックボーンとして】
Ⓐ 外界と調和できるこころ⇒精神的健康(強さ)
Ⓑ 外界と調和できないこころ⇒精神的不健康(弱さ)
外界との調和が大切であると説く。
【その1】
精神の健康とは、精神の自然のありかたに他ならない。
外界と、調和できてこそ、当たり前なのであります。
現代人のほとんどが、精神的弱者であり、その極点に、精神症・ノイローゼ・という不幸な症状があることになります。
【結論その1】
私、八幡俊は、カツ然と悟りをひらいた
外界と調和する強い精神こそが、人間の当たり前の姿に他ならなかった
そして、いよいよここからが本題です。
この本における「一番言いたいこと」「核心部分」に入っていきます。
【本題】
あなたとは、何か
あなたと、外観との関係
【哲学的 認識論】
① 自己以外のものは、すべて外界なのであります
② この世界(宇宙)〔自己と外界〕があることを認知するのは誰なのか、それが「ある」ということは、どういうことなのか?
つまり―自己がなかったら―世界そのものが「ない」ということになる
ナニがない、カニがないというのではなくて「ある」ということ自体がないのです
つまり
自己存在とはあらゆるものの存在を「ある」と判断するための尺度のようなものであり、「自分が存在することが万有の存在たらしめる」
「自分があるから宇宙があるということになります」
⇒あなたという自己存在が、万有存在の「主宰者」です
「大宇宙の主人公・大宇宙の主(あるじ)・大宇宙の主役、大宇宙の最大の認識者」
〔あなたの死後を考えてみてください〕
「死後も宇宙は存在するが、それを知ることはできない」
実際、「死後においては宇宙は存在しない」のです。
あなたが、生前にそうであったように!
これは、自己を含めた存在が「自己の認識内容に他ならないことを示しています。
自分が無くなれば、すべての者がなくなる。はっきり言えば
「人生は、死ねば忘れる夢なんだ!」
俗っぽく言えばこうなります
「世界は自己の意識内容である」
すなわち
「世界は自分のなかにある」
ということです。
自己と世界との関係に関して「二つのテーゼ」が成立することになります
① 自己は、世界の中にその一部として存在する
② 世界は自己の中に、その意識内容として存在する
ズバリ、②が正解ということになります
古代からの哲学が
主観だ客観だ
唯心論だ唯物論だ
と、決着がつかない、この二つの処理の仕方に苦しむからです。
【幸福はこころの持ち方で決まる】
②は、認識主体としての自己である
①の場合、主体性のない場合は、これに(外界、まわりの人々)振り回されることになります
⇒結論として、調和するほかに方法がない!
では、具体的に調和とは何か
振り回される自分⇒ Ⓐ多量の情報
⇒ Ⓑ多様な人間関係
常に外界に振り回される!!
⇒これにより精神的弱者を大量に生み出すことになった!
外界に自己を従属させてはいけない!
精神の主体性(唯心論)がない為自分の意識内容である外界を「苦」と感じて、これから逃げ出そうとしている人です。
この生命!なんでおろそかにできようか!
自分があるから世界がある
自分あらばこそ、この世界がある
人生よ、こんにちは!
こころに太陽を持て!
ああ、生まれてきてよかった!
生きていること自体が絶対的歓びである
私(著者 八幡俊)の辞書には、下記の言葉はない!
①恐れ ②悲しみ ③愚痴 ④批判
生まれたことは、偶然なのです!
一度しかない人生⇒外界に対して攻めのこころ
どんな状況においても大切な命、死んでなるものか。逃げて逃げて生き延びる(彼の戦時下にての強い思い)
「生きている」という事実「まだ死んでいない」ということ
多くの戦友が死んで自分だけ助かって、死んだ人たちの分も生きる。俺は最後まで生き抜く。
死を体験すれば「恐れる者は何もなし」の心境になれる
「生きているとは生き残っていることに他ならない」
「外界を包括できないなどという馬鹿なことは、あっては良いものではありません」
外界が自己の意識内容としての存在である
外界に振り回される人生であってはならない
それ以外のことは本来「ありえないこと」
外界から苦痛を感じる方が、どうかしている。
自己があればこその、世界なのだから!
自己の中に宇宙があり、主体は自分以外にはない
苦しみ‥あるというならここに出してみろ!!
ああ、世の人生論の情けなさ。すなわち「人生は苦しみの場所である」と。
ああ、なんたることぞ!
世界の二大宗教も又、情けなし!
仏教は「人生は苦海」なりという根本テーゼの上に建てられた宗教であり哲学です。
法華経では、「人の一生は安らぎというものがない、それは火に包まれた家のようだ」といい。
「この世界は、苦楽充満してはなはだおそるべし」と
もう、大変な厭世思想です!
一方、キリスト教では、
「人間は原罪によって神に背いた、その罰として死と苦しみを与えられる」
(原罪とは、アダムとイブが、神が「絶対に食べてはいけない」と禁じられたエデンの園にあった「知恵の実」を食べたことで、そのアダムとイブの子孫であるすべての人間が「原罪」を引き継ぐことになった。人間は、そもそも、罪びとであり、それを救世するのが、イエス・キリストなり〔旧約聖書の創世記〕)
すなわち、キリストへの信仰によってのみ、原罪から逃れられるとする。
ああ、もう全世界が口をそろえて「苦しい、苦しい」「人生とは、苦しみだ」と吠え
ている
そして、八幡俊氏の結論として、
「我々の人生は、この苦しみに耐え、打ち勝つことを偉大な行為として要求しています」
もう一度あなたに問います。
「苦しみはありますか」
「あります!」
「あるなら、ここへ出して見せてください!」
「苦しみは物があるようにあるのではないです。ですから見せることはできません!」
「目見見えないものが、どうしてあるのですか」
と、問い詰めていくと「私は苦しみを感じる。それだけは事実だ」という答えが残ります。
そうです。苦しみがあるかないか、ではない、苦しみを感じるか、感じないかが問題であるのです
それなら、苦しみを感じるとは、どういうことなのか。「感じる」と「感じない」の区別は何によって生じるのか。皆さん、もうお分かりのはずです。
外界を包括している人に苦しみなどありうるわけがない。が、外界と摩擦する時、苦しみ―また、悲しみ、怒りなど―という感情が生じるにすぎません。そして、外界を包括することが、人間の当たり前の姿であるなら、「人生に、苦しみはない」というのが真理であることになる。
精神の主体性を持つ人は、どんな立場に置かれても苦悩や悲しみを知らないのです。これが人間の本当の姿です。
「苦の原因は、まさに自分自身にある。その〔精神の姿勢〕にあったのですから。捉えてみれば、わが子なり」
一方、幸福の定義も明白である。
「すくなからぬ人が、幸福を外界に求めています。富や、名誉なり、境遇な外から与えられることを「幸福」と考えている。これは、相対的価値観念にすぎません。
「幸福を求めることは、すなわち不幸」という逆説的な定義づけができるかもしれません。
メーテルリンクの戯曲「青い鳥」には、幸福に関する真理が象徴的にえがかれています。チルチルとミチルという兄弟が幸福を意味する青い鳥を求めて、ほうぼうを探し回るが見つからない。疲れて帰ってみると、なんとその青い鳥は我が家でさえずっていた、というのです。
自由の本当の定義も、皆さんはすでにお分かりでしょう。
主体的な精神⇒健康で強い精神⇒外界との調和⇒たのしい人生⇒本当の自由
せっかくの、一度しかない人生です。
【外界に対する主体的な姿勢】を、確立してください!!
以上。この本の核心部分を私なりに要約致しました。
【13歳の当時の私は】
その前に、当時の自分自身を語りたいと思います。
当時、その前年の小学校6年生の頃、私は宇宙に強い関心を持ち、この広大なる宇宙に魅了され、毎日図書館で、宇宙に関する本をむさぼり読みました。そして、このちっぽけな自分と巨大なる宇宙の違いに愕然としました。同時に、我が家には、25坪の庭があり、そこにはアリンコやダルマムシや、トカゲ、カマキリ、イモムシやバッタ、トンボ。そして草花が咲き乱れ、空には満天の星々が輝いている。いったい「この世界はなんなんだ」と、子供心に驚嘆し圧倒されました。
もう一つ、私は「この世界は、仕組まれた罠」ではないかと、思いました。
その理由は、①生まれてきた理由がわからない②この世界は、実によくできている③この世界はもう、分からないことだらけだ。ということです。また当時は、頻繁に「デジャブ現象」があり、具体的には「これって、前にもあったな」という感覚です。これは子供の頃はよくある出来事だそうですが、その理由は分かりませんでした。20歳過ぎたころにはなぜか激減しました。
そして、その頃の私の最大の関心ごとを3つ挙げると①宇宙には果てがあるのか②この宇宙を創ったのは何者か③神が創ったというなら、神はどこにいますか。「神よ、出てこい!!」と。
まだ生まれて間もない、人生経験も大きな挫折も体験していない、「おぎゃあ」と赤ん坊からまだ間もない私が、大いに知りたいことは、ズバリこの大宇宙でした。母に小学6年生の頃、母に望遠鏡を買ってもらい、この大宇宙を眺めると、①宇宙の大きさと神秘に驚嘆。一方では、②5ミリにも満たない小さな体の「アリ」が、完璧の機能を持って、エサを探して、自分を家に持ち帰りコロニーを造って、集団生活を営んでいる大いなる不思議。③空を見渡せば、様々な鳥たちが、縦横無尽に飛び回っている。ほくも大空を飛び回りたい。
ここで、これらすべての疑問に対して、私の底知れぬ「好奇心」が、なぜ、なぜ、なぜなんだ!と連発するのである。
そして、ついにこのすべての私の思いを、無残にも、破壊する、すべてを「無」と化す世紀の大発見、それが人間の「死」でした。
もちろん、学校の授業でも、先生に聞いても、母に聞いても、納得のできる答えが得られない。(怖くて聞けない。あるいは、絶対に人には聞いていけない大きなヒミツだとも思いました)
唯一聞いてもよい母に聞くと、『死んだらお終いだ』と答えられました。
後日談として、85歳になった母に、成長した60歳の息子が、改めて再度聞きました『死んだらどうなりますか?』答えは「死んだらお終いだよ」。解答はまったく同じでした。
この「死の大発見」は、その後の人生の、私にとって絶対に解決させなければいけない「最大のテーマ」となりました。
と同時に、潜在的には10歳の頃から、はっきり自覚するのは13歳の頃でしょうか、幼くして、不治の病「死恐怖症」にかかりました。
具体的には、元気の飛び回る自分が、寝床について、まもなくして、もう突然に「死」という見えない恐怖が巨大なる思いとして襲ってくる。その瞬間、布団の中にもぐり込み「考えるな、考えるな」「忘れろ!忘れろ!」と繰り返していました。 さて、そんな悩める少年が、めぐり合ったこの本「自己を強くする本」は、まさに悩める僕に、革命的「考え方」を示唆してくれました。すなわち、「自己中心的哲学」です。
この本は、哲学的「認識論」「精神論」「意識論」といえます。そして、更には自己中心主義という「独我論」という哲学と思われます。
【60年後の私の読後感想】
私に大いなる感動を与えた原点図書であり、「心の指南書」であるこの本は、誠に残念ながら、大宇宙の根元原理、「霊的真理」から見ると、間違っていました。
すなわち、ズバリこの本は「メンタルトリック」「メンタルマジック」「信念の魔術(すべては、心の持ち様」であるということです。大宇宙の法則・霊的真理をまったく度外視した「トリック」であるということです。哲学というベールで被われた詭弁です! (ちょっと、オーバーヒートして、申し訳ございません)
自分自身がそうであったように、確かに何度も何度も読んで、自分のものにすれば「自己肯定感」は限りなく100%に近づくと思います。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
の境地にも達するかもしれません。が、それは「霊的真実」とは違います。
根元の「霊的真理」とは、かけ離れています。
しかし、「人生は本当にすばらしい。生きることはすばらしい!」という結論だけは、確かに一緒となります。
では、わたしが、現在、感じるところを、ピックアップして解説したいと思います。
☆ ☆ ☆
「人生は、死ねば忘れる夢なんだ」
この一文は、当時13歳の私が、最も大ショックを受けた言葉であります。
「さすがに、これは納得できない!」と思った一文です。
「死んだらお終い」ということですか。この世界は、夢幻だといいたいのですか?ということです。
今現在は、シルバーバーチから学び「人は死なない」「魂は不滅」「人は神の子」ということを、確信しているので「その違い」が明確に分かります。
(もちろん、ここへ至るまでには、悩みながら、右へ行ったり、左に行ったり、紆余曲折、七転八倒しながら学んできた訳ですが)
それは、ズバリ、2008年に巡り合った、「シルバーバーチの霊訓12巻」のおかげであります。
私の運命を変えた本。たましいを震撼させた驚嘆の本です。
そこには、すべてが書かれていました。
☆ ☆ ☆
さて次は、いよいよ「自分を強くする本」の「核心部分」であります、
「あなたは、全宇宙の主人公」
「この宇宙を、認識するのは誰なのか?それは、あなたです」
つまり自己がなかったらこの世界そのものが「ない」ということになる。
自分があるから宇宙があるということなる」
⇒あなたという自己存在が、万有存在の「主宰者」です。
「大宇宙の最大の認識者」
「あなたは、大宇宙の主人公、大宇宙のあるじ・大宇宙の主役」であると。
よって、外界に振り回される人生であってはならない!!
60年前、13歳の時。この一連の文章が、私が、当時「そうなんだ!」と歓喜させた文章です。
が、しかし
これは哲学的「認識論」ですが、間違いです!
言葉の遊び、メンタルトリック、哲学的遊びであります。
この本には、一番重要な創造主たる「神」が登場しません。
神なくしては、真実はわかりません!
私は、13歳頃から、「神さま、真実を教えてください」「神さま、死んだらどうなるんですか?」更には、『神さま、いるなら出てきてください!」と叫んでいました。
『神は、すべてを知っている」と思ったからです。
しかしながら、この本には「神」はまったく登場してきません。
神なしの「哲学書」の位置付けですね。
そして、さらなる問題の部分です。
この一文です。
「死後においては、宇宙は存在しない」とし、その理由は、
「自分が死ねばすべてのものがなくなる」
ということです。つまり、
認識者である自分がいなくなれば、全宇宙は消滅するということです。
トリック哲学、ここに極まるですね。(言葉が強くてすみません)
真実は、「認識者としての自分」は、不滅であり、永久であり、霊宇宙は不滅であるということです。
この物質世界は、実は、霊の世界であり、あの世が、別なところにあるわけではなく、現世と表裏一体であり、ただ、周波数、波動が違うだけである。
認識者である人間は、絶対に死なない、意識が消滅することのない、「永遠の認識者」であるということです。
ですから、
彼の言う「人生は死ねば忘れる夢」ではないということです。
それどころではありません、すばらしい「続き」(死後世界)があります。
現世は原因、あの世が結果です。これを「カルマの法則」といいます。
「私たちは、この地球に学ぶためにやって来た。こころを磨くためにやって来た。たましいを成長させるためにやって来た。ということです。死んで、すべてを忘れてもらっては困ります。完全犯罪だったと歓喜している場合ではありません。すべてはお見通しです。真実は筒抜けです。
この地球は、物質という肉体をもって学ぶ、学校、教習所、トレーニングセンターであります。
死後、「あなたは、どのような人生を歩まれましたか」と、問われます。
この世で出された問題集を、あの世で答え合わせをするということです。納得がいかなければ「再生」の道が残されています。
「神の摂理」、「カルマの法則」を無視して、いくら「哲学」してみても、トンチンカンな結論にしか導かれません。
「ことばの遊び」は、膨大の時を費やして堂々巡りの霊的無知の状態で、いくら哲学しても、
「神の摂理」「大宇宙の摂理」には到達できません。
神とは何か。自分とは何か。人生の目的は。神と自分との関係は。
真実は、あなたの「霊的覚醒」によってのみ、もたらされます。これを、「神の火花」といいます。
膨大なる物的「知識」を蓄えても、「霊的知識」「霊的真理」を知らなければ、真実は見えてきません。
☆ ☆ ☆
さらに、すすめてみましょう。
八幡俊氏は、あなたに問います
「苦しみはありますか」と。
「あります!」
「苦しみを、あるというなら、ここに出して見せてください!」
と、衝撃的な質問をしてきました。
彼の結論は、
「人生に苦しみはない」というのが「真理」である、と。
その理由は、精神の主体性を持つ人は、どんな立場に置かれても苦悩や悲しみを知らないのです。これが「人間の本来の姿」です。
「苦の原因は、まさに自分自身にある。その「精神の姿勢」にあったのですから、「捉えてみれば我が子なり」
と述べています。
「外界を包括している人に、苦しみなどありうるわけがない」と。
にもかかわらず、八幡氏は結論として、
「我々の人生は、この苦しみに耐え、打ち勝つことを最大の行為として要求しています」
やはり、「苦しみ」は、「あり」と言っているではないのですか?「あり」を前提に、打ち勝つということですよね。
ここは矛盾を感じるところです。
一方、
シルバーバーチは、「苦しみは、ありがたい試練」と捉えております。
苦しみも悲しみも、もちろん厳然とあります。「ない」のは、人生とは言いません。
苦しみは、こころの磨き粉。ありがたいこと。ということです。
これは、「苦しみはない方がいい」、「苦しみからいかに逃れることができるか」という従来の捉え方とは真逆です。人生とは、苦しんで苦しんで学ぶものです。
「艱難汝を玉にする」これです。
そして、八幡氏の「自己中心哲学」の、もうひとつの重大な確信は、
「外界との調和」です。
主体性ある行動は、「調和」なくしては、ありえません。
自己中心的な行為は、至る所に激突が生じやすい。
「調和」の鉄則がどうしても必要です。
ワンセットということでしょう。
八幡俊氏の結論
私は豁然(かつぜん)と、悟りをひらいた。
「外界と調和する強い精神こそが、人間のあたりまえの姿に他ならない」
さて、ここまで、私は、色々と反論させていただきましたが、
とはいえ、この八幡俊先生の「自分を強くする本」に巡り合えたからこそ、20代、30代を乗り越えられたのも事実であり、紆余曲折しながらも、ついに「シルバーバーチ」に出会えたのも、この本のお陰だと確信しております。
八幡俊先生、本当にありがとうございました。
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