読めば読むほど分からなくなる宮沢賢治。そもそも、その作品の多さに驚かされます(250作品)。詩を読んでも、童話を読んでも、一回読んだだけでは、よく意味が分かりません。何が言いたいのか、何を伝えたいのか、難解です。多くの評論家の書評を読んでみても、千差万別です。
「銀河鉄道の夜」の内容は、読む人により、本当に色々な解釈がなされております。
宮沢賢治は、明治29年に生まれました。
明治時代に生まれ、大正に生き、昭和の初期まで、3つの元号を、疾風のごとくにかけぬけました。
しかし、その生涯とは、短い37年です。
驚くべき行動力で、休むことなく、いっしょうけんめいに、そして燃焼しきった人生だと思います。
実は、賢治は、実際に死の2年前に病床で、自分の死が近いことを自覚し、「遺言」を残しております。その言葉を、最初にご紹介したいと思います。
父母へ 〔遺言〕
「この一生の間 どこのどんな子供も受けないような、熱いご恩をいただきながら、いつも我慢で、お心に背(そむ)き、とうとうこんなことになりました。今生で、万分の一も、ついにお返し出来ませんでした。恩は、きっと次の生、また次の生で、ご報じいたしたいと、それのみを念願いたします。どうかご信仰というのではなくても、お題目【南無妙法蓮華教(なむみょうほうれんげきょう)のこと】で、私をお呼び出しください。そのお題目で、絶えず、おわび申し上げお答えいたします」と。
(※ 句読点追加と一部口語変換いたしました)
〔昭和6年9月21日 記〕
父政次郎と母イチへの深い感謝をのべ、両親の言うことをまったく聞かずに、こんなことに(死)になりました。輪廻転生して、何度も、生まれ変わって、何度でもおわびします、と・・・
更に、驚くことに、この日付けは、実際に賢治が亡くなる、2年後の日にちと同日なのです。便せんにしたためた遺言は、両親のみならず、もう一通あり、そのあて先は、〔弟の清六、妹しげ、主計(婿養子)、妹くに〕様への、2通です。その遺言の内容に、私には言葉が見当りません。天を仰ぐよりありません。
昭和8年、37歳の生涯を終えます。
臨終の日の朝。往診の医師からいよいよ容態が悪化していると家族は聞かされ、一方、賢治は、瀕死の病床のなかで文字通り「最後の力」を振り絞って、大きな声で「南無妙法蓮華経」を唱え、用意してもらった、オキシドール(アルコール)で自らの身を清め、「気持ちいい~」と二度言い、父、政次郎に「法華経を千部印刷して知己友人にわけてください」との遺言を残し、また、弟、清六にも頼み事をして、家族に見守られながら旅立ちました。9月21日午後1時30分。
その時の、賢治の一連の行動に、私は震撼させられました。
それは死の直前、自らの死を悟り、死の数時間前に取った、渾身の行動です。
「オキシドール」です。
アルコールで自らの手で、自らの身体を清めたのです。人間は、死後ではなく、死の直前に、そのような行動をするのでしょうか。まさに、その時、賢治は「悟り(すべての執着の解放)」の領域に入ったのでしょうか・・・
また、死を前にして
父「お前のことは、今まで、いっぺんもほめたことがなかった。こんどだけは、ほめよう、りっぱだ」
賢二「お父さんに、とうとう、ほめられたもや」
と、弟清六に、ほんとうにうれしそうに言った。やっとついに父に認められた・・・
現代の「どく親」や「親ガチャ」を超えた、賢治が、超えよとしても越えられない、偉大なる尊敬する父との、壮絶なる反発の心の歴史の終止符として、賢治の最後の言葉として、胸が締め付けられます。
死因は急性肺炎です。当時の平均寿命は45歳ぐらいです。肺炎・結核は命取りの時代です、特効薬や、ペニシリン(1928年に発見)がない時代。最愛の妹トシは、24歳で結核で夭逝しました。
その切なる思い、妹への愛が「永訣の朝」として結実する。
日本を代表する詩の一つです。その詩の内容は、何度読んでもこころ打たれます。
賢治は、33歳の時、病に倒れそれから、約5年の療養生活が続きますが、その間も休むことなく精力的に、作家活動を続け、亡くなる2年前に、手帳に書き残したのが、有名な「雨にも負けず、風にも負けず」の詩です。
ここで、最後に、賢治の辞世の句、2編をご紹介いたします。
方十里 稗貫(ひえぬき)のみかも 稲塾れて み祭り三日 そらはれわたる
病(いたつき)の ゆえにもくちん いのちなり みのりに棄(す)てば うれしからまし
昭和8年9月19日(2日前)記
【短くも、とことん生き抜き、自分の人生を燃焼しきった賢治。すがすがしく清廉にして、その心は喜びに満ちている】
賢治の【時代背景】
賢治の、その人となりを知るには、その「時代背景」を知る必要があります。
そして、彼の「生い立ち」です。更に、賢治と多くの人たちとの「人流」です。
賢治は、明治、大正、昭和の3つの元号を駆け抜けます。
生まれる、一年前の明治28年日清戦争が終結しました。翌年の、明治29年6月11日、M8の巨大地震が東北地方を襲いました。「明治三陸地震」です。40メートル級の大津波が押し寄せ、まさに、岩手県が一番大きい被害となりました。総死者数は、2万1959人。東日本大震災と変わりません。
その2か月後に、賢治は、質屋と古着商を営む、宮沢家の長男として、現在の岩手県花巻市に生まれました。
賢治が8歳の時、明治37年には、日露戦争が始まりました。約1年7か月の戦いに勝利し、樺太は分割・譲渡され、「南樺太」が日本の領土となりました。
その一方では、歴史に残る「大凶作」の年でもありました。
賢治が生まれ、育った時代とは、まさに『凶作や飢饉に見舞われるという、過酷な時代』だったということです。
貧しく打ちのめされる農民を見て、なんとかしなくてはと思う、賢治のこころの原点がここにあります。
しかし、一方で、庶民の生活面では、東京を中心とした「大正デモクラシー」と言われる、開花の時代でもありました。
賢治は、なんと22歳の時シベリア出兵のための徴兵検査に、自ら志願します。父政次郎は、賢治の身を案じ、研究生として学校に残ることで、検査延長を強く進言する。父の反対を押し切って徴兵検査を受けるも、第二乙種、体格不良で『不合格』となる。賢治は、大いに落胆したと考えられます。〔賢治は身長167cm(5尺5寸5分)の、がっしりとした体形〕。当時は、まさに軍国主義の時代でありますが、
この賢治のとった行動、その真意はいったい何だったのでしょうか。
大正12年9月1日、賢治27歳の時には、関東大震災がありました。
その1か月前に、賢治は、船旅で、南樺太へ5日間の旅行をしております。
妹トシの死の翌年です。失意の傷心旅行と言われております。翌年、心象スケッチ『春と修羅』が刊行されました。
世の中は、「富めるものと、富まざる者」「大地主と小作人」、いつの時代でも、貧富の差があり、差別があり、民は常に貧しい。
現在から比べると、何もない時代です。新幹線も、自動車も、パソコンも、携帯もない時代、「おら、東京さ行ぐだ」「おら、こんなのもういやだ」と歌った「吉幾三」の嘆きの世界です。
日本は、明治の文明開化からめざめ、「あけぼの」から「開拓」の時代に突入しております。
今の時代と比較すれば、科学的最先端なものは何もないかもしれませんが、あるものがあります。それは、災害、飢饉、みんなが一緒になって助け合わないと生きていくことができない、「人を思いやる」世界です。そして、今は失われつつある家族の絆です。
そして、災害に苦しめられる一方には、大自然があり、多くの動物たちがいます。
清らかなる川、イギリス海岸、珍しい石が、変わった形のゴロゴロしております。別名「石っこ賢さん」と言われていた賢治。谷川の岸を歩くと気持ちよい「風」が頬をなでる、「風の又三郎」の世界です。三郎は、風の精、風の神・・・
眼前にそびえる岩手山(標高2038m)を見て、賢治は何を思い何を感じたのでしょうか。
すき透った青い空。まだ、公害なんてありません。地球温暖化という言葉もありません。
遠く夜空を見上げれば、驚くほどのまばゆい星たち、きらめき、渦を巻いて横たわるものがある。そう天の川銀河です。賢治には、その時「銀河鉄道」が夜空を走るのが見えたのでしょう。
☆ ☆ ☆
賢治を、多くの人は、貧しい生まれと言うイメージと持っていると思います。
生涯独身。禁欲生活を貫き、晩年は肉を食べない菜食主義者となりました。栄養失調といわれても、肉は食べませんでした。農業のために、膨大なる生命力をつぎ込みました。
「清貧の農聖」と言われております。
しかし、実際は、違います。「貧」ではありません。超お金持ちのボンボンです。夢見るユメオさんです。が、冷徹なる科学の眼、現実主義者としての側面を併せ持っております。そして、生来の好奇心、創造力、それを実現する行動力を持ち合わせております。金銭面でいえば、貧しいどころか、お父様(政次郎)に言えば、何でも買ってもらえました。
「富める自分」と「貧しき民」のはざまに悩み、貧しき人を見て「なぜ、俺は、こんな大金持ちの家に生まれてきたのか」悩み苦しみ、自問自答する賢治でした。あえて言うと、家業をつがない超まじめな「放蕩息子」が賢治です。
賢治は、「質屋と古着屋」の裕福な「宮沢商店」御曹司です。
封建制度、家長制度の時代。
長男が質屋を継ぐことは、当たり前のことです。当時の質屋は、今の銀行とは違う、一面では、庶民のためのりっぱな職業です。賢治のおよめさんになりたいと思う娘さんは、何人もいたことでしょう。
賢治は25歳まで、実質、無職です。高校、研究室、資金の出所はすべて、父です。16歳になると働くのが当たり前の時代ですので、勉学が許されることこそが、父政次郎が、大変な資産家であることが分かります。賢治は、その父の財力のお陰で、趣味三昧、学問や専門の研究に没頭することが出来たと言えましょう。
しかし、賢治は、この父の質屋という商売がつらくて仕方なかったことでしょう。
このような明治・大正の「時代背景」で、農学校を卒業した時(24歳)、父に「いったいお前は、何をしたいんだ!」と聞かれ、悩み、苦しみ、苦闘する賢治でした・・・・・
Continue 2022年9月加筆修正
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ、夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ、玄米四合ト
味噌ト、少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲ、カンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシ、ワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ、病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニ、ツカレタ母アレバ
行ッテ、ソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ、死ニサウナ人アレバ
行ッテ、コハガラナクテモイヽトイヒ
北ニ、ケンクヮヤ、ソショウガアレバ
ツマラナイカラ、ヤメロトイヒ
ヒドリノトキハ、ナミダヲナガシ
サムサノナツハ、オロオロアルキ
ミンナニ、デクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩(なむむへんぎょうぼさつ)
南無上行菩薩(なむじょうぎょうぼさつ)
南無多宝如来(なむたほうにょらい)
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)
南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)
南無浄行菩薩(なむじょうぎょうぼさつ)
南無安立行菩薩(なむあんりゅうぎょうぼさつ)
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