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宮沢賢治【愛と奉仕】

宮沢賢治「愛と奉仕」 エッセイ
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黄輝光一

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫な体をもち

欲はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし わかり

そして忘れず

野原の松の林の蔭の

小さなかやぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西につかれた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行って怖がらなくてもいいと言い

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろと言い

ヒドリの時は 涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなに木偶の坊(でくのぼう)と呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういう者に    

私はなりたい           (現代文に転換)

【問題提起】10個のお団子のおはなし

あなたは、「10個のお団子を持っていたら、恵まれない人に少しでも、与えたいと思いますか」

「そうしたいとは思いますが、今はその余裕はありません」

「私は、全部、自分で食べます」

「食べ終わって、もうお腹がいっぱいで、余っていたならあげるかもしれません」

「貧しい人、困っている人がいれば1個あげたいですね」

「この話は、その人が、今、幸せであるかないかによって、回答は違うと思います」

「現代社会では、実際、他人に与える人は少ないと思います」

「私が、10個のお団子を持っていたら、どうしたらこのお団子を増やせるかと、考えますね。もちろん合法的に、10個を20個へ、20個は、100個へ。

僕は、それで、事業を拡大してきました。自分の夢をかなえる為です。困った人に「与える」というお話は、美しいとは思いますが、大きな違和感を覚えます。現実は、違うと思いますね」

最近読んだ、有名な辛口の小説家・評論家「澁澤龍彦(1928年~1987年59歳没)」の著書「快楽主義の哲学」の中で、宮沢賢治について、こう論評している。

「童話作家として有名な宮沢賢治の詩に、「雨ニモ負ケズ」という、へんな詩がありますが。【詩の一部を掲載して】ずいぶん、みじめったらしい詩です。賢治の童話は好きですが、この妙な人生哲学の自虐的詩は、どうもいただきかねる。目の前に牛肉があるのに、「味噌と少しの野菜」で満足していなければならないという法はありません。なにもわざわざ「ミンナニデクノボウト呼バレ」なければならない必要はありません。正当な理由があるときには、怒りを爆発させてもいいし、「丈夫ナカラダ」をもっていれば、いろいろな欲望も湧いてくることでしょう。どうして、それを満足させてはいけないのか。だいいち、「イツモシズカニ笑ッテ」いられたのでは、まわりの者が気味がわるくてしかたありません。

ソウイウモノニワタシハナリタクアリマセン!

また、ホリエモン(堀江貴文)さんは、その著書『時間革命』のなかで、こう述べています。一部抜粋すると、

「僕の時間を奪うやつは許せない。慈悲のこころとか、おもいやりといった言葉や価値観は、僕には理解できない。僕は、好奇心のおもむくままに、やりたいことをやるだけ」更に、

「人生に、目的なんてなんてない。今を楽しむことがすべて。『死んだらどうなるか』とか『人生の目的は何か』とか言った思想は、僕に言わせれば『兎角亀毛』(とかくきもう)だ。考えても意味がない。時間の無駄だ」と。

彼の本を、読ませていただき、すべて一貫していて不動心を感じました。「離婚・倒産・刑務所暮らし」そのすべてを体験し、豊富な人生経験から導き出された「人生観」「死生観」が、「楽しむこと、やりたいことをやる」という結論です。

以前私は「あなたが正しい」という論説を書きましたが、人それぞれ「人生観」「死生観」の違いを痛切に感じざるをえません。

☆  ☆  ☆

本題に戻りまして、

自分が持っている10個のお団子を、病める人、悲しむ人、困っている人、人生に疲れ果て道を失っている人、よるべない人、今日の糧(かて)すらない人、そういう人たちに「自分を数に入れない」で、10個すべてを人に与える人もいます。何度読んでも、私にはそう読みとれます。その人は宮沢賢治です。

雨にも負けず 風にも負けず から始まり、みそと少しの野菜を食べ、あらゆることに、『自分を勘定にいれずに』・・・さらに、東に病気の子供があれば、行って看病し、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくていいと言い、北にケンカや訴訟があれば、つまらないからやめろと言う・・・みんなに木偶の坊と呼ばれ ほめられもせず 苦にもされず そういうものに私はなりたい。

賢治の生活実践が、すべてこの通りだとは言いませんが、これを日々実践していきたい、そうありたいと切に思う宮沢賢治。私にはそう思えます。そしてそれはただの理念や、希望ではなく実際にそう行動した人だと私は思います。まさに、死ぬ瞬間まで。

人生とは「人の為に尽くす」と言うこと。「愛と奉仕」。

賢治にとっては、「時間」と言うものが、人のために使われる、人助けのためならいとわない。むしろ人を助けることこそ「わたしの心のよろこび」だと言っている。

「幸せとは何かを」問いつづけた賢治。みんなが幸せにならないうちは、本当のしあわせは来ない。

世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」【農民芸術概論綱要】

新たな時代は、世界がひとつの意識になり生物となる方向にある」同上(ワンネス思想)

 ☆  ☆  ☆

「幸せになりたい」と誰もが思う、それは「自分がしあわせになる」とういことです。当たり前のことですね。でも、それでは、ほんとうにしあわせの世界は、いつまでたっても訪れないと、賢治は言っている。

今は「個人主義」の時代です。

「自己愛」が尊いとされ、残念ながら他の人を気にかけ、思いを寄せる余裕はありません。自分自身のことだけで、せいいっぱい、目いっぱいのというのが現実です。

どうして、そんな社会になってしまったのでしょうか。

なぜ、みんなが幸せになれないのでしょうか。

それは、この世界がしあわせという果実を、取り合う社会だからです。

もっと欲しい、もっと欲しい、そう思えば思う程、しあわせは去っていく。たくさんのお金を集めることが、幸せの正体だと思いこんでいます。しあわせとは、与えることです。ギブ&テイクではなく、ギブ&ギブです。

経済至上主義、過当な競争社会は、「こころにゆとりのない社会」ができあがっています。お金・お金・お金「マモンの神」をあがめ、そこに幸せがあるんだと確信している、それを獲得することに躍起になっている。人を押しのけ、振り払い、他人は関係ない、そうしないと、多くのものを獲得できないからです。

私たちは、人間も、動物とまったく同じように「弱肉強食」だと思っております。賢治は「そうではありません」「人間はそうあってはならない」と何度も訴える童話がたくさんあります。

本当のしあわせを感じるセンサーは、あなたの「こころ」にあります。それは助け合い、分かち合い、自分のお団子を与える、すべての人たちが共存、共生して、初めて実現する。「あなたは私。私はあなたです」

「自己責任」とは、困っている人に手を差しのべてはいけない、助けてはいけないということではありません。助けることこそ、賢治のいう「みんなが幸せになるため」の自己責任です。

助け合う、分かち合う、困っている人がいれば、すぐ飛んで行って助けたい、と切に思う賢治。

賢治の詩から、童話からは、こころを「ゆさぶられる」何かがひしひしと伝わってきます。

☆  ☆  ☆

【賢治の死生観】

賢治は、決して、死んだらお終いだとは思ってはおりません。死の恐怖に襲われながらも、そんなはずではない、死によって人生はお終いではないと切に願い、「銀河鉄道の夜」で語り、「永訣の朝」で叫び、全作品で私たちに語りかけているように思います。友人の死。最愛の妹トシの死。彼の「死生観」が全篇から感じられます。

「自己犠牲」という言葉も、賢治の童話からうかがえます。この言葉は、現代人が最もいやがる言葉かもしれません。「損をする」からです。そして最後には自分が「死んでしまう」。賢治は、まったく自分の利にならない「無償の愛」を語っている。無私、滅私、自己犠牲。目指すべきは、利他のこころ、慈悲のこころ、愛と奉仕です。

石・土・風・大自然・銀河・宇宙。極小から無限大、宗教から「死後の世界」まで。37歳で旅立ちますが、多くの人達の愛に囲まれて、たとえ短くても燃焼した、濃厚にして豊穣なる人生。いつも「いっしょうけんめい」な賢治が浮かびます。

賢治は、知っています、すべての人がしあわせになるキーワードを。

「ああ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、私の体などは、何べん引き裂かれてもかまいせん。」

(童話、『烏の北斗七星』 戦争のない世界を願う)

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