【賢治のこの写真のポーズは、敬愛する「ベートベン」をまねしたもの】
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燃焼し尽くした37年の生涯。
彼は、ただものではありません。
① 舞台監督
② 脚本家・演出家・俳優
③ 作詞・作曲家(2021年、パラリンピックの開会式「星めぐりの歌」大竹しのぶが歌)
④ 農業コンサルタント(農業指導)〈2000枚もの肥料設計、驚嘆!〉
⑤ 音楽評論(クラシック【ベートーベン】)⇒音楽教師 藤原嘉藤治との出会い。
⑥ レコード収集(レコードコンサート実施)
⑦ チェロ(楽器演奏)・オルガン。〈チェロはバイオリンより一回り大きい〉
⑧ 浮世絵収集(高さ3寸、数百枚)
⑨ 鉱物研究家(「石っこ賢さん」と言われる)
⑩ 「科学者」⇒賢治を一言でいえば、その基本は「科学者」という言葉が、ピッタリ。
⑪ 地質学者(土壌研究家)・天文学者
⑫ 生物学者・気象士
⑬ 死後の世界観⇒大人の童話「銀河鉄道の夜」
彼は、『見えないものが、見える』見霊者です。⇒「宮沢家のタブー」
⑭ 「霊魂の不滅」への強い願望〔早逝した妹トシに会いたい。切実な願い〕
⑮ 現在の「プラネタリウム」の背景映像の元祖
⑯ 哲学者・思想家
⑰ 童話作家〔99作品〕⇒小学校担任の、八木栄三先生の影響。更に、国柱会の師、高知尾 智耀(たかちお ちよう)からの童話作家への啓示あり。【私見。ズバリ、子供向けの童話ではなく「大人の童話」である】
⑱ 詩人 [心象スケッチ]⇒日本を代表する詩『永訣の朝』(妹トシへの思い)。トシへの三部作。慟哭の三篇の詩「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」
⑲ 歌人(短歌) ⇒石川啄木(26歳没)の「一握の砂」の「三行詩」の影響を受ける。(啄木は、同じ岩手県出身であり10才年上だが、実際に会うことはなかった)
⑳ 篤志家(ボランティア活動)
㉑ 動物愛護・自然保護・環境問題(エコロジー)
㉒ 多くの作品に貫かれている「アニミズム」(森羅万象・精霊信仰)⇒賢治の日蓮宗への改修の大きな
理由の一つ
㉓ 「イーハトーブ」という岩手県をモデルにした、ユートピアの提唱。賢治の理想郷の原点。
「銀河鉄道の夜」は、天の川銀河と「イーハトーブ(岩手県)」を合体した、賢治のオリジナルの世界。
㉔ 登山家・探検家・冒険家 (すさまじき行動力。岩手山は、20回以上登り。東京へは9往復。北は樺太から、南は京都まで。まさに、ウオーキングマン賢治)
㉕ トルストイ〔生涯の友、保阪嘉内との出会いと影響。同人誌「アザリア」〕
保阪嘉内は、銀河鉄道の登場人物「カンパネルラ」のモデルと言われている。
ニーチェ・その他ロシア文学。
※ 賢治と「保阪嘉内」とは、男の友情を越えた恋心?賢治から嘉内に送った現存する直筆書簡は、なんと73通。賢治自身、嘉内を「ただ一人の友」と言った。手紙にて法華経を勧めたことが、二人の間に溝を作り、それ以来疎遠になる。賢治のショック。その後の人生の大きなの喪失感となる。
㉖ 宗教思想家
㉗ 本人は、日蓮宗(日蓮、法華経) ⇒国柱会(国粋主義的団体)。田中智学に学ぶ。
㉘ 父は、浄土真宗(親鸞、歎異抄) ⇒【宮沢家の宗派である】⇒父との宗教戦争。賢治の死後18年後の1951年に、なんと政次郎(まさじろう)は浄土真宗から日蓮宗に改宗する。
〔賢治の恩師は、浄土真宗の名僧〔真宗大谷派〕 暁烏敏(あけがらす はや)。そして、浄土真宗、「願教寺」の住職、島地大等(しまじだいとう)との出会い。賢治は、大等訳「漢和対照妙法蓮華経」を読んだことから、法華経信仰に目覚め、のめりこんでいく。まさに運命を変える出会いである〕
㉙ 賢治の多くの作品の根底にあるのが、日蓮宗の「大乗菩薩道」の精神。
賢治は、日蓮宗の「菩薩行」の求道者であり、伝道者でもある。〔求道すでに道である〕⇒雨にも負けず・・・
〚一生涯独身にして、禁欲的な生活〛
㉚ キリスト教に学ぶ〔斎藤宗次郎・その師、内村鑑三〕⇒「雨にも負けず」の詩は、斉藤宗次郎への敬愛する思いの吐露ともいわれている。キリスト教の影響は、「銀河鉄道の夜」にも、色濃く反映されている。
㉛ 外国書収集〔ドイツ語・英語の原書を読む〕
㉜ ベジタリアン(2つの最高傑作童話『ビジテリアン大祭』『フランドル農学校の豚』)⇒まさに実践者である。(生活はヴィーガンに近い)
㉝ 造園家 〔公園の父と呼ばれる本多清六に学ぶ〕⇒賢治設計の「日時計花壇」「南斜花壇」他。
㉞ エスペラント語・「オノマトぺ」〔擬音語・擬態語〕の元祖⇒賢治の第六感は、大自然の音が、声として聞こえてくる。
㉟ 画家 〔水彩画の「月夜のでんしん柱」「日輪と山」他〕
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農学校の「教師」(教師時代は、賢治が25歳の時から4年と4カ月。それまでは実質、無職)
賢治のお葬式には、なんと2000人。弔電多数。
父、政次郎(まさじろう)は、地元の名士。1916年、所得納税額は、花巻で11位。町議会議員4期。また長年の調停委員の功績により、1951年には、藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受章する。
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死後、賢治の作品を世に広めた、多くの人々(実弟、宮沢清六。高村光太郎、草野心平、天沢退二郎、入沢康夫 他多数)。
死後に出版された、書籍や評論は、ゆうに千を遥かに超えております。
信じられないような驚くべき連鎖反応を起こして、日本全国へ、そして更に世界へと・・・。
その趣味の多さ、造詣の深さは、賢治研究者ロジャー・パルバースをして「まるで先手観音のようだ」と言わしめる。
《1から35》のために、賢治はいったい何人の人に出会ったのでしょうか。
そして、どれだけのお金を使ったのでしょうか・・・
私は、そのすべてに驚嘆します。
しかも、そのすべての人間関係が、濃厚かつ豊穣なのです。
まさに、ご縁「絆」です。
今、この瞬間にも、そのキズナは、世界に広がっています。
まさに、おそるべし宮沢賢治。
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