第一話 永遠の踊り子
僕の毎日は、無機質で始まります。
無味無臭、無感覚、沈黙、その繰り返しです。毎日、毎日、目の前にあるのは『白いキャンパス』です。その白い無機質の空間を、幾何学模様で埋め尽くすのが僕の毎日の仕事です。設計図。
会話や折衝や、説得はまったく必要ありません。大きなミスもなく、怒鳴られることもなく、順調と言えるかもしれません。優秀なのかもしれません。しかし、それで、会社にとって僕が本当に必要かどうかは全く分かりません。別の言葉で言い換えれば平凡です。毎日が同じことの繰り返しです。大きく変革する勇気は持ち合わせておりません。その世界から飛び出す勇気はありません。唯一の趣味は漫画です。自慢できる趣味ではありませんが、ひとり、何もない代り映えのしないアパートの一室で、唯一現実逃避できる空想がそこにはありました。膠着した頭脳を癒してくれます、無限に広がる砂漠に忽然と現れるオアシスです。
34才独身。結婚という言葉を忘れつつあります。お酒もたばこも吸ったことはありません、そういう厳しく頑固な家庭で育ちました。
いつものように、定刻を少し過ぎた頃、なぜか、帰り道とはとは逆の方向に歩いていました。30分程あてどもなく歩いていると、うっかり、裏通りから紛れ込んでしまったのでしょうか、突然、夜のとばりが閃光を放ちました。きらめくネオンに、派手な装飾で着飾ったビルが目の前に現れ、様相は一変しました。歓楽街です。酒処、居酒屋、小料理屋、キャバレー、クラブ、6階建てのビルのすべてが、クラブです。クラブ明美、クラブ渚、クラブミカド、クラブ銀河・・・何かを求めて多くの人々があてもなく行きかっております。欲望と快楽が渦巻いているのでしょうか。お酒を全く飲まない僕には、まったく無縁の世界です。「お兄さん、どうですか!」何度も連呼する声が、内耳の三半規管に執拗に絡みつきます。まったくふさわしくない世界、早くここから脱出しなければ、男の甲高い声を振り切るように、確実に逃げ切ったはずだった、しかし、僕に残されていた悪しき欲望のかけらに、もう一人の自分自身がドンと背中を押した。勇気があれば一度は入ってみたい、僕の大好きな映画、あの宮崎駿の『千と千尋の神隠し』、神々の世界、神秘の世界、妖怪の世界、幻影・幻覚の世界、
そこは『ストリップ劇場』でした。
中学・高校は、男子一貫校でした。あこがれの女性といえば、小学校時代の校庭で遊んだかわいい三つ編みの女の子だけ、僕の記憶はそこですべてブロックされ、その後は高校時代の、すぐにいなくなった「麗しき音楽の女性教師」と食堂の「おばさん」それ以外にはまったく記憶にありません。ある意味で女子禁制の厳格なる「男の修道院」でした。大学に入っても現実にはいないあこがれの君への妄想は、更に美化され巨大化し、グラビアの実態なき女(ひと)、それが、あたかも温かいぬくもりとなり柔らかい肌触りとなって、視神経と脳髄を刺激し悦びとなる、現実は実体のない偶像、気高くも近寄りがたき乙女、天使、天女でした。それは、か弱くもはかない、払拭できないコンプレックスになっていました。
そこは想像を絶する世界でした。こんな世界があったのかと、いままで思っていた汚れた不純なる、決して近寄ってはいけない、見てはいけない世界、その思いがみごとに崩壊し音もなく崩れ去り、一転してメルヘンの世界、神秘の世界が現れたのです。会場は、ギラギラした男の視線でいっぱいでした。もう、むんむんしております。周りの人たちの心臓の鼓動の高鳴りと荒い息遣いがはっきりと聞こえるようでした、しかしなぜか、どうしたわけか、僕にはまったく気になりませんでした。
乙女たちは、美しい音色に誘われて、眩(まばゆ)いばかりの光彩の中で、その羽衣で舞い踊り、一つ一つ脱ぎ捨て、いつの間にか一糸まとわぬ天女となりました。その天女は、そのまま、軽やかにダンスを舞い、空を飛び、時には寝そべり、幻想の世界にいざなってくれました。考えもしなかった不思議な世界、幻想が現実化した多くの天女が現れました。それぞれが個性的で、そのダンスも、古典、日舞、ジャズ、モダン、現代風のダンス、おそらく独自に考えたと思われるダンス、豪華絢爛、僕にとってそこは退屈な日々を忘れさせてくれる、飽きることのない夢の時間・空間でした。
そして、最後に、現れたのが彼女。なぜかとても柔和な顔立ちでした、しかし、バック音楽ともに、一旦踊りだすとその容姿と出で立ちは一変しました。150センチに満たない小さな体からは、エネルギーとオーラがほとばしり、信じられないアクロバットな動きをするかと思えば、それとは真逆な妖艶で繊細な動き、小さい体がひときわ大きく際立って見えました。しかも、彼女の目線の先には必ず僕の眼があり、「どうですか、うまいでしょ!」と語りかけている様に思えました。完全に魅了されてしまいました。
ヌードダンサーという言葉は嫌いです。
ストリッパーという言葉は嫌いです。
踊り子です。
川端康成の踊り子です。
彼女の芸名は、『ダイヤモンドゆう子』
それから、僕の人生は一変しました。まばゆいばかりの光輝を放つダイヤモンド、すっかり彼女の大ファンになりました。
『追っかけ』です。それからというもの毎日毎日通いました、平凡で退屈な日々が日増しに明るくなっていくのが自分でも分かりました、生きがいを発見しました。もう漫画はいりません、現実の世界が垣間見えたからです。そして、この業界のことが少しずつ分かるようになってきました。踊り子たちは関東近県の劇場を10日のローテーションで回っています。例えば、上野OSから浅草ロック、船橋ミュージック、川崎ロック座等、移動しています。朝は10時ごろ、夜は最終が夜8時から10時です。勤務している会社から場所的に一番近いのは上野OSですが、遠い所はギリギリの最終です。でもすべて会社が最優先です。でも許す限り毎日毎日通いました。
大雪の日、積もった雪の中をころげながら着いたのに、本日休演をみてガッカリしたこともあります。泥酔したお客が、突然舞台の彼女に飛び掛かり必死で助けたことも、誕生日に手渡そうとした「カトレア」の花を別の踊り子に奪われたことも、やっと手に入れたディズニーの超かわいい小熊のダッフィーを落として、大勢のファンに踏まれ悲しい思いをしたことも、
彼女は、健康管理ができているのでしょうか、行ったら「お休み」だったことはただの一度もありません。一方、僕が仕事で1週間休んだ時は、「どうしたの病気?」と温かく耳元でささやいてくれた。
二年経った頃には、僕はりっぱな業界通になっていました。
そんなある日、ラストステージが終わり、大勢の男たちのからの万感の拍手の中、彼女は、突然僕に近づいてきました。実は、僕の席は『へそ』と言って最前列の「へそのように丸く出っ張った所」、大勢いた彼女の熱烈なるファン方々のいわば指定席です、気の弱い臆病者の僕ですがその場所だけは絶対に譲れません。彼女を至近距離で見ることができる最高の特別席なのです。
目の前に近づき、耳元でやさしくささやきました。
「11日からは、船橋よ」と。
嬉しさが胸いっぱいに膨れ上がってきました。僕は、ここに集まった、どの熱烈なるファンよりも、すごい、プレミアムメッセージをもらったのです。もう、次の場所を聞くことも調べることもありません。彼女にとって最も信頼のおけるファンで選ばれし「人」。ダンスが終わった後、汗ばんだ肌にバラの匂いを漂わせ、
『いつもありがとう!』
「5日は、上野よ」
「17日は、川崎よ」
「31日は、日乃出町よ」
と、ささやき続けてくれました。
僕は、彼女にとって最も安全で紳士的なファン、ただし、それ以上でもそれ以下でもありません。僕はそれ以上を望みません。会えるだけで十分です。彼女のダイナミックで妖艶でかつ繊細なダンスを見させてもらえるだけで、今日のパワーをもらえます。明日への活力をもらえます。
そして、ある日、彼女がささやきました。
「しばらく休むの、ごめんね、今まで本当にありがとう、あなたのことは一生忘れないよ」
その日以来、ぱったりと、彼女は僕の世界からいなくなりました。
・・・・・・・
劇場関係者や、業界通の人、熱烈のファンに聞き回っても、不治の病気になった、失踪した、引退した、信頼できる確実な情報は何一つ見つかりませんでした。
希望に満ちた毎日、明るくなった毎日、上司から「最近、君は生き生きしているね」と言われた日から、突然、真っ逆さまに暗黒の奈落の底に落ちてしまいました。「失意」という言葉がピッタリです。胸の中に大きく膨れ上がった「生きがい」という希望の風船が急激にしぼんでしまいました。考えられる場所はすべてあたりました。もはや、捜す手立てがありません。
そして、僕の人生で一番長い6か月が過ぎました。
落ち込んで生気を失った僕をみて上司がいいました。旅行に行って来たら・・・
春の訪れの感じられる、3月末、木々は芽生え花を咲かせ、草花が活気を取り戻す頃、二泊三日で四国の道後温泉に行きました。道後温泉本館は、大好きな宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に登場する『油屋』のモデル。油屋には八百万の神様達が日頃の旅の疲れを癒しに日本各地から訪れる。経営者はおどろおどろしい顔をした魔女の湯婆婆(ゆばば)で、従業員の多くはカエルやナメクジの化身、千尋は『両親の罪』を背負い、人間だったのに豚にされてしまう。踊り子の『ゆう子』は、神隠しにあい豚に変えられてしまったのだろうか。
湯船につかりながら、ありもしない幻覚の中で、僕は湯奥の底の巨大な渦巻きの中に吸い込まれて行った。
そして二日目、午前中、栗林公園に行った後、早めの夕食を済ませて、6時半ごろ宿泊旅館から温泉街の散歩に出かけ、赤ちょうちんと居酒屋、淡い街路灯のけだるい揺らぎの中を、あてもなく歩きました。そして突然、目に飛び込んできたのが「ヌード劇場」です。昔懐かしい「ヌード」の名前、都会と全く違った簡素で、あえて目立たないようにひっそりとたたずんでいました。中に入ってすぐ、出演者名簿を確認しました、残念ながら「ダイヤモンドゆう子」の名前はありませんでした。でも木戸銭の3000円を払って、中に入りました。舞台はもうすでに始まっていました。かなり空席が目立っていましたが一番後ろの席に座りました。いたずらに無味乾燥の時間が過ぎ、もう帰ろうかなと思った瞬間、小柄な女性が、激しいロックの音と共に、舞台右から元気よく飛び出してきました。「あっ」と思った瞬間、呼吸と鼓動が止まりました。ありえない、信じられない。時空を超えた誰かの仕業なのか、間違いなくあの「ダイヤモンドゆう子」だった。彼女もすぐに気が付きました。怪訝(けげん)と、驚きのまなざしが、鋭くこちらに伝わってきました。
舞台が終わると、近づいてきて、彼女はささやきました。『隣の喫茶店にいて、待っていてね、必ず行くよ』
4年前、『衝撃の大型新人、あらわる!』その時が22才、あれからもう4年たっている、今はきっと26才・・・
古びた喫茶店には、時代遅れの色あせた漫画が無造作に置いてあり、店内は誰もいませんでした。20分ぐらい経ったとき、ドアが開いた。
現れた女性は、茶色のドーラン(化粧)のかけらが残り、黒っぽいジャージとジーパン、さっきまで舞台で見ていた光(ひかり)輝くスポットライトを浴びて、天に舞う全裸の乙女とは、まるで別人でした。
・・・・・
「あわてて、着替えてきた、びっくりよね、全然違うでしょ、女は化けるのよ、夢を壊してごめんなさい。ちゃんと化粧できなくて、これがゆう子の正体」
口調が一転して、
「柏木に探せって言われたの!?・・・
そんなことある訳ないわよね、ありえないね、疑ってごめん、ごめん、ごめん、
本当に、ビックリした!
あなた、なんでここにいるのよ!?」
それは、僕が聞きたい!
速射砲のように、一方的に話しかけてきました。僕たちの間には2年の歳月は流れましたが、「ささやかれる」ことはあっても人生を語り合うような会話は一切ありません。それどころか、彼女の感情の起伏のある、なまなましい言葉を聞いたのは初めてでした。しゃべれなかったはずのダンス人形が、突然壊れたラジオのように、饒舌に話しかけてきました。
「本当に、まったくの偶然なの!?もう、うれしい!すごくうれしい!」
それは、僕もまったく同じ気持ち。間違いない『運命の糸』というものがある。僕の思いが神様に伝わりこの場所へと導いてくれた。
「でも、あなたの名前知らないわ?」
・・・・・
「神林です」
「みんなの名前知らないの、私は、『ダイヤモンドゆう子』、ここでの名は、朝霧かおり、
もう正直に言うわね、神林さんは最も信頼できる人だから、私は『小林映子』」
改めて、現実という刃(やいば)をこころに突き付けられた。
「神林さんは、おいくつなの」
「36です」
「ええ、うそ~!同じね?」
・・・・・
「えっ、26才じゃないの」
「ウソ、全部ウソ!私の人生はすべてウソ。デビューするとき、柏木がお前は22で行ける、小顔で童顔だからって、でも、10才はひどすぎるよね。でも、だんだんその気になって、36才なんていったら、ファンはみんな逃げだすよね」
「どうして、いなくなったの?」
初めて核心に触れた。一番の謎、絶対に知りたかったこと。彼女の心の深淵に迫った。
「柏木から逃げてきたの、殺されるかもね。失踪よ、脱走よ、あいつ、今頃、血眼になって探していると思うよ」
「金庫のお金、一千万円、全部持ってきちゃったからね」
「でも、もともとは、これは私のお金よ、不当に搾取されたの。
だから、彼は警察には行けない、墓穴を掘るだけよ」
理解不能という言葉の4文字が、頭を駆け巡った。
そして、急に話題を変えた。
「ねえ、ねえ、それより私のダンスどう思う」
・・・・・
「すばらしいです」
「そうじゃなくて・・・神林さん、私のダンス何回見た、100回ぐらい?」
「いや、200回ぐらいかな」
「もう、すごいね、本当に感謝だわ、それで、どう、具体的に」
「ダイナミックで、繊細ですね」
それから、
「みんなとは、全然違います、オーラがあります」
「それから!」
「ダンスへの熱い思いが伝わってきます」
「うれしい!!私はダンスが全て、ダンスしか取り柄がないの、他は全部だめ!
でも、映子の時は、そのオーラもなし、ただのおばさんよ!」
「柏木ってだれですか?」
「劇場のオーナー、白豚、変態おやじよ、私、埼玉出身なの、陣内小学校6年の時、両親が離婚して母と二人だけ、でもその母も2年後ガンで亡くなったの、結局ひとりぼっち、それからの人生は狂ったまんまよ、結局、母の姉に引き取られたんだけど反抗して高2の時に家出、たどり着いたのは西川口のキャバレー、オーナーは妖怪婆(ようかいばばあ)、その弟が柏木よ、もう、元気な後期高齢者、取り柄は欲望だけ、私は彼のかわいいペットよ。その柏木が、君はダンスがうまい!すばらしい!と劇場で本格的にダンサーやらないかって、うまい言葉に騙されたのよ。私が世間知らずの馬鹿だったのよ、これ以上話したくないわ!・・・
でも、ダンスをしているときが一番幸せ、嫌なことすべて忘れられる、男の熱い視線が最大の歓びよ。その中で、あなたが一番、最高!」
・・・・・
「ちょっと待って、陣内小学校って、川越の?・・・」
「そうよ・・・」
「あの、僕も陣内なんですが」
「え、まさか同級?」
・・・・・
「神林さん立ってもらえない、すごく大きいわね、180センチはあるんじゃない、全然違うわよ、彼は小柄でメガネをかけていた」
「僕、当時は、まだ、小さくて小太りでメガネをかけていました」
・・・・・・・
「秀才神林!」 彼女が叫んだ!
「あっ、それ、僕です」
「ええ、これって、奇跡じゃない、ありえないわ!」
・・・・・・・
・・・・・・・
「まってくれ、僕は、君を思い出せない」
「両親はいつもケンカしていた、ほとんど学校に行かなかった、でも、一度だけ、神林君に算数教えてもらったことがある。やさしかった、すごくうれしかった。神林君は有名人だったから、まじめで勉強ができて、学校で私が名前を知っているのは神林君だけよ。
友達から、卒業写真見せてもらった、私だけ写るっていなかった、とても悲しかった。でも、次に私が見たのは、神林君の姿、あこがれの神林君。小さくても凛々(りり)しい君を見て、うれしかった!」
『君(くん)』に代わっていた。
確かに、ほとんど授業に来なかった女の子がいた、この子の名前が「小林映子」だったのか、思い出せない・・・
もう、僕の頭の中はハルマゲドンのような大混乱に陥っていた。平凡なサラリーマン、36才独身オタクだ。その栄光の『秀才神林』は、はるかに遠い彼方に置き忘れてきた過去の遺物だ。現実と非現実、空想と妄想、現在と過去。混沌とまざり合って何がなんだか分からない。小林映子がいったいどんな過酷な人生を歩み、どんな人なのか僕には分からない。未知なるカオスの中に頭があった。
愛(いと)しい「ダイヤモンドゆう子」そして、もうひとつの現実、小林映子、二人が頭の中で、激しく火花を散らして交錯した。
「神林君のようなまじめな人、誠実な人、回りには一人もいない。私には人生の選択肢がなかった。海に放り出された舵(かじ)のない小舟よ、ただ流されて流されていくだけ、もうこんな人生いや!」
・・・・・
「お願い、結婚して!」
唐突な言葉が脳髄(のうずい)に突き刺さった。
えええ、どういうこと?
・・・・・・・
僕には今すぐに答えられる回答用紙をもっていなかった。
「帰らなくっちゃ、神林君、明日も仕事なの、明日劇場に来られる、来られなかったら、もう一度ここへ来られる?」
別れてからのその夜は、何もない天井をじっと見つめていました。
天井は、はるかなる大宇宙、でもなぜか暗く立ち込める星雲。
あるはずのない星を数えていました。
僕には彼女の人生は、重すぎます、重すぎます・・・
あまりに重すぎます。
しかし、彼女を忘れることは絶対にできません。
青春そのものです。
忘れかけていた夢のような結婚の二字。
この出会いは、何億分の1の確立です。まさに奇跡です、間違いなく奇跡です。
神のお導き、そうなら、神よ!僕は、いったいどうしたらいいのでしょうか。
まんじりとしたまま、朝が来ました。
淡い斜光が、窓から差し込んできます。
庭の池には、二匹のコイが寄り添うように仲良く泳いでいます。
空には、黄緑の化粧をしたメジロのつがいが、薄いピンク色の満開の桜の木のまわりをぐるぐると楽しそうに飛び回っています。
私は劇場に向かいました。
外には受付のおばさんが掃除をしていました。
「すみません、手紙を渡してもらいたいのですが」
・・・・・・・・・・
午前10時、車で『こんぴらさん』(金刀比羅宮)を目指しました。
長い長い石段を、へたりながら、よろけながら、やすみながら、
両側の縁石には、桜の花が、いっぱい咲いていました。
そして、1368段を登り切り、ついに目標の最上階の奥社(厳魂神社)に着きました。
石段の数は、
苦難の数、
思い出の数、
見上げた空には、夕焼け雲がなびいていました。
私は、神の前で手を合わせました。
あの日から、僕の生活は一変しました
つまらない退屈な日々が、楽しくてうれしくて
喜びにあふれた日々になりました
仕事が終わればすぐ駆け付けました
ダンスのすばらしさを教えてもらいました
たくさんのパワーをもらいました
たくさんの希望をもらいました
たくさんの幸せをもらいました
たくさんの思い出をもらいました
感謝の言葉しかありません
でも、それは「ダイヤモンドゆう子」
もうひとりのあなたを目の当たりにして、僕は悩みました
でも、どうしても、あなたを幸せにする未来が見えません
許してください。
幸せになってください
いい人に巡り合ってください
いつも、いつも、祈っています
本当に、ありがとう。
永遠の踊り子へ
第二話 娘へ
50年振りに来た新宿歌舞伎町、懐かしい青春時代を思い出します。学生時代、高田馬場から近いこともあり、ラクビー、サッカー、WK戦と、勝っても負けても新宿。明け方まで大勢で祝杯、帰らずに阿佐ヶ谷の六畳一間の友人宅に大勢でもう一泊したこともありました。題目は演劇談義、お前は才能のない三文役者だ、冗談じゃないよ、脚本がひどすぎる、あれではいい演技はとてもじゃないができないと、燃えたつ青春はバラ色だった。
歌舞伎町、まだ昼間だから、安心して歩けるが、夜ともなると怪しげなやからが徘徊し、クラブ、キャバクラ、そう一番びっくりしたのは、イケメンの顔の大きな看板がずらりと、これが世に言う『ホストクラブ』ですか。しかしすごいですね、男が女を接客し100万円のドンベリのシャンパンタワーで乾杯!若い女性が月に200万も300万も平気で使う、男女逆転、世の中いったいどうなってしまったのかと。
歌舞伎町1丁目、明けることのない不夜城、でも、今は燦燦(さんさん)と太陽が降り注ぎ眩(まぶ)しいほどに明るい、暫く歩くと路地裏に安心できそうな喫茶店を見つけました。否!!中に入ったらまったく違いました。やはり東洋一の歓楽街、歌舞伎町です。出勤前の厚化粧のホステス、欲望をむき出しの青年、ネクタイをしているから大丈夫だと思ったら大間違い、ど派手のスーツ、まともな職業でないことは一目瞭然だ。
そこへ、最も危険そうな二人組が入ってきた。そして、よりによって私の隣に座った。ふたりの大きい声が、耳の内耳に直行だ。
「兄貴、頼むよ、兄貴しか頼めないんだよ」
「どうせ、あいつに言われてきたんだろ」
「今度は、いい仕事だよ、兄貴は、金困ってんだろ、頼むよ」
「もう、いい加減にしろよ、ムショから出てきたばかりだ、休ませてくれ、もう仕事はしない、きっぱりやめた、あいつによく言っとけ!」
「ところで、いつも隣にいたあのダンサーいないの」
「ああ、分かれたよ、そうだろう、人生で3回もムショ暮らしだ。今回は5年間が獄中、愛想つかされて当然だ、3年前に獄中離婚したよ、本当にかわいそうなことをした、何もしてやれなかった」
「そうですか、驚いたな!
兄貴、今回は安全で確実、割もいい、しかも、兄貴にぴったりの仕事だと思うんだ、めったにない仕事、大チャンスだと思うよ」
「安全だって?安全な仕事がある訳がない、馬鹿なこと言うな!」
「兄貴、頼むよ」
「そうだ、あいつに頼め、あいつなら、やるだろう」
「あいつって誰です」
「樺山だ」
「樺山?・・あいつは、今ムショ暮らしです」
・・・・・
あああ、聞きたくない言葉が、次から次へと、脳髄に木霊(こだま)する。
そして、全身が恐怖のこころで硬直する、その時だった、
「お兄さん、灰皿、取ってくれる」
・・・
「あれ、お兄さん、手が震えているよ」
・・・・・
私はお兄さんではない、古希をすぎたりっぱな老人だ。
男は突然立ち上がり大きな声で言った。
「俺は帰る、二度と電話には出ない、あいつによく言っておけ!」
思わず見上げると、あの「たけし」のやくざ映画「アウトレイジ」の「白竜」のようにオールバックで眼光が鋭い、乗り越えた苦闘が額に刻まれ、迫力ある存在感を漂わせている。絶対にお友達になってはいけない人だ。
弟分のような男が後を追っかけて、店から去っていった。
そういえば、先週、ラジオのある人生コーナーで聞いたショッキングな話を思い出しました。それは『できる男』とは何か、つまり「本物の男」とは「強靭な男」とは何か・・・
『男は、人生を平々凡々と生きていてはいけない、荒波にもまれて数々の困難を乗り越えてこそ磨かれ強くなる』と、そこで出題者が言いました、『勤めた会社が順風満歩、夫婦も円満、もちろんそれにこしたことはありませんが、人生は何があるか分かりません、そんな時こそ、男の真価が問われる。想定外の会社の倒産・妻との離婚、運命や苦難を克服して乗り越えてこそ『男』が磨かれる』と・・・
そこで問題です。男が磨かれる『三つの試練』があります。離婚・倒産、さあ「次のもう一つ」は何ですか?分かりますかと、
分かった!『父親の死』ですか?
いいえ、違います、
それは『ムショ暮らし』です。
・・・・・
「りこん、とうさん、むしょぐらし」これは、あってはならないブラックジョークだ。
究極のアウトロー哲学(やくざ)は、『男は顔で語り、背中で語る』そうだが、冗談じゃない、相手の目をしっかり見て、正直に語るべきです。まっとうに生きなければいけません。清く、正しく、美しく。ああ、今はまったく流行(はや)らない言葉なのかもしれません。
もう、一刻も早く、この恐ろしい喫茶店を退散しようと・・・
そこへ、30才ぐらいの、もう、はち切れるばかりの大きなお腹の女と、かわいい3才ぐらいの女の子が手をつないで入ってきた。この場には相応しくない親子連れだ。女はあたりをキョロキョロ見まわし誰かを探しているようです。結局、私の隣に座りました。ピンクのワンピースの無邪気な女の子は、私に、にっこりと微笑んで左ひざに触れてきました。あまりにかわいくて思はず力いっぱい抱きしめてやりたくなりました。私にもこんなかわいい娘がいたらなと・・・
「ダメよ、さわっちゃ!」
と同時に、
突然、待ち人を求めて、ちんちくりんの女が入店、女の前に座り、開口一番言いました、
「ああ、ビックリした!あの男ムショから出たんだ。危うく、鉢合わせするところだったわ」
その女の心臓の鼓動が伝わってくる、あの男って、やくざの白竜のことか?
そして、すぐさま、つづけて、
「まだ、平田と別れていないんだって、あんな男ロクなもんじゃないよ、一刻も早く別れなさい!」と言い放った、
あああああ・・・・・
お腹の赤ん坊はどうなるんですか、このかわいいあどけない3才児はどうなるんですか?
もっと、ましなアドバイスはできないんですか? この女たち、二人ともロクなもんじゃない。ここは日本一治安の悪い歌舞伎町、どす黒い闇社会、まともな人はここには住みません。そのど真ん中の悪魔の喫茶店で白昼堂々と待ち合わせをする二人の女、押して知るべしだ。子持ちの女は、きっと黒服の呼び込み野郎と結婚そして妊娠、男は、お金は一銭も入れないで、暴力!それを見かねた白竜と別れた元同僚の風俗嬢・・・まあ、そんなところだろう、
私は、そのとんでもないアドバイスをした女をまじまじと見た。
その瞬間、心臓が破裂した。
それは、私の娘だった!
告白
私にはかわいい娘がいました。目に入れてもいたくない、一人娘です。
私は、大学の理工学部を出て、大手三社と言われる東陽日輝エンジニアリングに就職しました。3年後お見合で結婚し、翌々年かわいい女の子が生まれました。本当に幸せな日々が続きました。娘が小学校6年の時です.40才の時、大きな転機が訪れました。アフリカのナイジェリアで大量の石油が産出、その石油プラントの一大プロジェクトが組まれました、私はそのリーダーに選ばれたのです。嬉しかった大変光栄でした。しかし、大きな問題が発生しました。妻が大反対したのです。私は危険地帯なのでもちろん単身で行くつもりでしたが、行くなら離婚すると。妻は大変な寂しがり屋でした。行けば5年は帰れません。大ゲンカの末離婚しました。今になって思うことは、仕事人間だったということです、いつも夜遅く帰宅、日曜は接待ゴルフ、家庭を顧みることは一度もありませんでした。妻はずっと、ずっと、寂しい思いをしてきたと思います。思いやりがなかった、自分勝手だった、妻の寂しさを理解できなかった。もっと話し合うべきだった。娘といっぱい、いっぱい遊ぶべきでした。アフリカ行きを一方的に宣言し離婚。
一番悲しい思いをしたのは娘です。娘は言い争いをする私たち見て心を痛め学校へも行かなくなりました。私は親権を譲り、遠くアフリカの地へ旅立ちました。月12万円の養育費を肩代わりに、結局、私は妻と最愛の娘を見捨てたのです。
ところが、2年後別れた妻ががんで亡くなったと妻の姉から連絡がありました。娘は妻の姉が引き取ってくれました。15才の娘は、さぞかし絶望的な悲しいさびしい思いをしたことでしょう。仕送りはつづけていましたが、私は日本へ帰ることはありませんでした。娘に罪はありません、私の娘への思いは募るばかりです。自業自得です、悔恨です、もうあと戻りのできない運命。異国の地から元気でいることを祈る毎日です。私は、娘に手紙を書きました、何度も何度も書きました。
『こちらナイジェリアは、45度の猛暑です。君は、元気にやっていますか。寂しくなったら手紙をください、異国の地で、すっと、ずっと、君のことを思っています』、しかし、娘から返事が来ることは一度もありませんでした。娘が、高2の時、家出をしたと姉から連絡が来ました。警察に届けても家出人ということで真剣には探してはもらえません。結局、それから20年間、行方不明のままです、もう死んでしまったのか、それとも、どこかで生きているのか、私の絶対に忘れることのない悔恨、深海のごとく深い後悔の思いです。娘に『会いたい!』
私は、海外赴任から15年後、ナイジェリアから帰国。
内勤となり、60才で退職しました。再婚はしていません。たくさんあった髪も大きく後退し、皴(しわ)もいっぱい増えました。亡くなった両親の埼玉の大きな実家で、ひとりで空虚な寂しい毎日を過ごしていました。
そして、ある日、まさに、突然に、奇跡のように、
娘が現れたのです。
失恋をしたそうです、悲しみの果てに、私のことを突然思い出してくれたのでしょうか、1週間は泣いていました。毎日、毎日励ましているうちに親子の絆、心が通じてきました。
別れた時が13才。家出をしたのが16才。それから36才まで、20年の長い年月を、女一人どうやって生きてきたのでしょうか。語れないほど辛かったことでしょう、いっぱい涙を流したことでしょう、ああ、万感の思いが胸に突き刺さる。
面影はあります、背が低いのは私の遺伝子を継いだのでしょう、目はぱっちりで母親似です、毎日毎日楽しそうにダンスをする元気な女の子でした。ダンスは私譲りです、音感もよかった。
そんなある日、ついに、泣きながら「お父さん!」と言ってくれました。天にも昇る嬉しさ!何度謝っても、謝り切れない、よくぞ、頑張って生きていてくれた。
もう永遠に手放さない、抱きしめたい!
それからの毎日は、失われた時間を取り戻すかのように、童心に戻って近くの伊佐沼(いさぬま)公園の散策、入間川(いりまがわ)の岸辺の散歩、夜は、生まれた初めて味わう娘のおいしい辛口カレーライス、夢のような日々でした。しかし、母の思い出、子供の頃の思い出は語ってくれましたが、肝心の20年間の空白の時間は一切語ってくれませんでした。私もあえて聞くことはしませんでした。
そして、運命の日が来ました。
1か月たったある日、私は、娘のズシリと重いボストンバックの中身を見てしまいました、そこには1千万円の現金の束が入っていました。
「どういうお金なんだ!」
私は娘を問い詰めました、
ダンサーの仕事で稼いだと娘は言いました。
そんなに稼げるはずがない、すると娘は言いました。
私の名は、「ダイヤモンドゆう子」、ストリップダンサーで稼いだと。
あああああ、よりによって・・・私は冷静な判断ができなくなりました。頭の中が真っ白になりました、そして、決して言ってはいけない言葉を放ちました。
『なぜ、お前は、まっとうな仕事ができないんだ!普通の人生が送れないんだ!』
「この金も、ろくでもない金だろう」
娘は言いました、
「よく言ったわね、私の人生を狂わせたのは、あなた、あなたが全ての原因、不幸の原因は、すべてあなたよ!」
娘は泣きながら、ボストンバックを抱えて、出て行ってしまいました。
すべて、すべて、娘の言う通り。なんていうことを言ってしまったんだ、
もう、取り返しがつかない、俺はなんというダメ人間なんだ!
◇ ◇ ◇
それは、私の娘だった。
あのダイヤモンドゆう子だった。ゆう子は、私の妻の名前だ、亡くなった母への恋慕が、『ゆう子』を名乗らせた。
そして、この歌舞伎町の喫茶店で目の前にいるのが、本名『小林映子』。
更に別れて10年、まさかこんな所で、会えるとは。
私は思わず顔をそむけた、心臓がバクバクしている、彼女はまったく私のことに気付いていない、依然、身重の彼女にアドバイスをしていた、その後の二人の会話は上の空、まさに、運命のいたずらか、神が最愛の娘に導いてくれたのか・・・どうしよう、どうしよう、
今、話しかける訳にはいかない・・・・・
暫くして、二人は店を出た、私はすぐに追いかけました、そして、
「映子!」と叫びました。
すぐ、映子は振り向きました。
「あの時は、すまなかった、許してくれ!」
近づいて思わず彼女の左手を握り締めた。
ビックリした娘は、硬直して、まじまじと私の顔を見た。
「お父さんなの?」
確かに、10年前とは、大分髪が薄くなった、顔の皴もいっぱい増えた、だが正真正銘のおまえの父だ。
「うそ~!」
二人の間に長い沈黙が続いた、
・・・・・
「私、人を待たせているの、終わってからでいい?」
(冗談じゃない、生き別れの10年ぶりの再会、これ以上に大切なことは他にはないはずだ!)
「なに言っているんだ、10分でも言い、すぐ話したいんだ!」
・・・・・
娘は、ちょっと待ってね、と言って、「1時間ぐらい遅れる」と電話をした。
娘に、導かれるように、西口のビックカメラのそばの喫茶店に入った。
「元気そうだね・・」
「お父さんこそ、元気そうね」
「あの時は、とんでもないことを言って悪かった、すべて、お前の言うとおりだ!許してくれ」
10年の時の流れが、今この一点に集中した。微かな沈黙が流れた。
「さっき、聞いてしまったんだが、あの男(白竜)と別れたのか?」
「えっ、知っているの?・・・悪い人じゃないよ、私を助けてくれたの」
(悪い人じゃないって?あの顔はどう見ても悪党だ、刑務所が自宅のような男だ、まだ懲りないのか、だまされたいのか)
「あの人は、一本筋の通った男の中の男よ」
「じゃあ、どうして別れたんだ」
「彼に、1千万円の件を話したの、そしたら、逃げ回っていても仕方ないと、俺が劇場のオーナー(柏木)に言って話をつけてやると」
(待ってくれよ、それって、やくざの手口じゃないか?)
「結局、彼は、脅迫罪に問われたけど、裁判では、私の不当就労、不当なる虐待、未払い給与が認められて、500万戻ってきたの、しかも、私の罪は問われなかった。私は、すべて彼のおかげだと思っている、だけど彼は、執行猶予中だったので実刑をくらったのよ、面会の時、彼は言ったわ、「これ以上俺にかかわるな!別れよう。劇場の柏木は裁判で本当に悪かったと謝った、お前はもう籠の中の鳥じゃない、自由だ!これからは真っ当に生きれ、ダンスが好きなら人に教えろ、もうストリップはやめろ」と。私は、彼は誠実な男だと思っている、本心だと思っている。
だけど、寄りを戻すつもりはないわ、いい人ができたの。・・・
・・・・・
あああ、いったいどうなっているんだ!
複雑な思いが渦潮のように、ぐるぐると頭を巡った、
とにかく、おまえが幸せなら何でもいい、元気ならそれでいい・・・・・
そのとき、さっきまで抱きしめたいと思っていた、歌舞伎町のあのかわいい3才の女の子が、シンクロした、瞬間、言葉が出た。
「そういえば、お前がアドバイスしていた身重の女性、ずいぶん厳しいこと言っていたな」
「えっ、聞いていたの?」
「彼女、劇場(柏木)の女(こ)なのよ、過酷な人生を歩んできたの、情がありすぎるのよ、冷静な判断がまったくできていない、はっきり言ってやらないと地獄に落ちるわ、人生経験のまったくないおとうさんには、分からないことよ」
(ふざけるな!おとうさんは、もう70才を超えている、人生経験はおまえより、はるかに豊富だ)
(いや待て、そうじゃない、あの言葉だ!男の度量は、『離婚・倒産・ムショ暮らし』しかし、私は一つしかクリアしていない、いや違う、クリアさえしていない、離婚を後悔している、懺悔している、一生悔いている。とても乗り越えたとは言えない。苦難を克服し強靭な男なったのとは程遠い、弱い頼りがいのない男だ。娘の言う通りかもしれない、ここで怒ったら、二の舞だ)
「分かった、余計なことを言って、すまん」
おとなしい猫のように、従順になった。
そして、一番聞いてみたいことを、聞いた。
「どうやって生活しているんだ」
「大好きなダンスは絶対に辞められない、今は、30人ぐらいの子供たちに教えているわ、一人で生活するのは慣れているわ、なんとかなるわ。お父さんが言っていた、普通の人並みの生活をしている、心配しないで、元気よ」
「おとうさんこそ、どうなの」
・・・・・
ああ、『おとうさん』って、なんと心地よい言葉なんだろう、私の人生は、この言葉を待ち続けていたのかもしれない。もう私はひとりじゃないんだ。
「年金と週に3回バイトをしている、困ってはいないよ、困っているのは、埼玉の実家が大きすぎること、映子、部屋はいっぱいある、いつでも戻ってきていいんだぞ」
・・・・・
10年の空白が少しずつ埋められていくようだ。
・・・・・
「あの、実は私、結婚するの、さっきから、ずっと彼を待たせているの」
えええええ・・・
別れて間もないのに、もう結婚だって、
それじゃあ、「別れたら次の人」の替え歌人生じゃないか。
今日という日はいったい何なんだ、何のための今日なんだ、頭が混乱してきた。次から次へと回転木馬のような日だ。
「実は、彼、すぐそばにいるの、是非会ってくれる」
そうだ、娘はもう46才だ。決して若くはない、もしかしたら、あのやくざ映画の第二弾『アウトレイジ・ビヨンド』の悪役、いぶし銀のような顔の中尾彬(あきら)が現れるのか、それじゃ、私より年上だ。それだけは勘弁してくれ、よからぬ心配が心をよぎった。
その近くというのは、すぐそば、歩いて2分ぐらい、名曲喫茶「らんぶる」と書いてあった。
店内は広々としていた。レトロな雰囲気、レトロなイス、レトロな家具、いい感じの所だ。娘は、彼のいる場所が分かっているかのようにスタスタと私を案内した、初めてのお見合いのような緊張感が走る。
正念場だ、堂々としなければ、
だが、さっき父親になったばかりだ。
あまりに急すぎる、こころの準備が間に合わない、
・・・・・
「紹介します。父です」
私の目の前に立った男を見た。大きかった、私よりはるかに大きい、ビシッと真っ当な紺の背広に、紺のネクタイをしている、小柄な娘とは全く不釣り合いのような、真面目(まじめ)でりっぱな男に見えた。
その男は、はっきりとした声で言った、
「神林です」
そして、にっこりほほえんだ。
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