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「自己愛」と「利己愛」と「利他愛」              

エッセイ
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黄輝光一

【病める人たち】

多くの日本人が忙しさの中で自分を見失っているのではないでしょうか?自分は、「何のために生まれてきたのか」「生きる意味が見いだせない」「自分なんて、社会に必要にされていない」「毎日がつらい」。過酷な競争社会の中で、自暴自棄になって、こころが病んでいる人がいっぱいいます。

自殺者は、44年連続で2万人を超えて(警視庁の統計、厚生労働省発表)、自殺未遂は80万人、毎日3人の人が電車に飛び込んでいます。まさに、驚くべき状況です。

自己中心社会、経済至上主義社会、弱肉強食社会の中で、はじき飛ばされ、絶望に打ちひしがれ、孤立し、深い厭世観に陥っている人達が山のようにいます。

私、黄輝光一は、13歳の頃から、この弱く、はかない自分自身を鍛えたいと思い、今まで何十冊という、「自分を強くする本」「自己肯定感をあげる本」「幸運を招く本」「幸せになるために」「自己愛」を唱える本に巡り合いました。

      ★  ★  ★

その本に共通した「理念・思想」は、下記の通りであります

① 一番大切なのは、「自分」です

② まず、自分を好きになることから始めましょう

③ 自分を愛することができない人が、どうして人を愛することが出来ますか

④「自分が幸せになること」すべて、これに尽きます

⑤ 大切なのは、自分が、自分に好かれること

⑥ もし、自分のことが大好きで、自分のことをすばらしいと思っていたら、この世の中に何も問題はない

⑦ 宇宙で、一番大切なのは「私」

⑧ 自分のやりたいことをやる

⑨ あなたはそのままでいいんだよ

⑩ ありのままの自分を愛する

⑪ 頑張らなくてもいいんだよ

⑫ いつも、大丈夫、大丈夫とこころで唱えましょう

⑬ バンジージャンプが怖いなら、歩いて降りてきてもいいんだよ

⑭ 楽しいことだけをやろう

⑮ 自分を100%受けいれよう

⑯ 自分のすべてを許しましょう

⑰ 人生のすべては、自分が作り出したもの、ならば美しい花を咲かせましょう

毎日、毎日、復唱すると、どんどん元気が出てきますよ・・・

・・・・・・ ???

☆  ☆  ☆

これらの言葉には、多くの共通項があります。

自分が、落ち込んだ時には、きっと元気をもらえることでしょう。

でも、しかし、

ちょっと待ってください。

私は、この様な言葉に、大いなる違和感を感じます。〔利己的な思いを感じる〕

全体としての印象を言えば、「人間のあるべき、めざす理想の『こころの世界』とは違うのではないだろうか」と感じています。

逆に言うと、それほどまでに、多くの人が、自分を見失い、自信を喪失し、病んでいる。と、感じざるを得ません。

多くの人が本当に「無明の闇」に中にいて、まさに強い孤独感の中にいます。

私は、なんとかしなくては、といつも思っております。

☆  ☆  ☆

まず最初に、この二つの言葉を紹介したいと思います。

自己愛」と「利己愛」です。

18世紀の思想家・哲学者ルソー(1712~1778年66歳没)によると、

「自己愛」とは、簡単に言うと『自己』を愛する気持ちです。

自分を愛して大切にして、生きていこうということです。

具体的に言うと、生まれた瞬間から自然に備わっている「生存本能」です。『自己防衛本能』です。これを否定することはできません。人間の大切な生存原点といえます。

ルソーによると「自己愛」とは、社会や国家の概念の「すべての出発点」ということです。

一方、「利己愛」は、他者との関係から自分に芽生えるものであり、資本主義社会とのこの競争社会の中で、他人への配慮を忘れるのは、もちろん、自分への配慮も忘れてしまう感情のことです。(ルター)

自己愛と利己愛とは、大きな違いがあります。

私は、「利己愛」は、自己愛が自己中心主義社会、弱肉強食の競争社会の中で変質を遂げた「愛」と考えています。

確かに、自信を喪失している方、こころの病にかかっている方、深い厭世観に落ち込んでいる方への、処方箋・特効薬は「自己愛」です。失われ、自信を無くした現代人への特効薬です。

しかし、それは、一方では、この競争社会では、更に進むと、自己中心的な「エゴ」に変質します。すなわち「利己愛」です。それは、本来のあるべき、めざすべき理想のこころの有り様ではありません。

残念ながら、私が、今まで発信し続けてきた「霊的真理」から導き出される「人生観」「死生観」とは、対極の思念です。

ズバリ、私の思う、「利己愛(エゴ)」の対極の理念とは、「人の為に尽くす」です。

「利他愛」です。

愛と奉仕です。

慈愛のこころです。

☆  ☆  ☆

【宮沢賢治 雨にも負けずの後半部分より】

雨にも負けず

・・・・・

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行って怖がらなくてもいいと言い

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろと言い

ヒドリの時は 涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなに木偶の坊(でくのごう)と呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういう者に

私はなりたい        (現代語訳)

☆  ☆  ☆

まさに、自己のしあわせを追求する、自分本位のこころではなく、

「他人をおもいやるこころ」です。

さらに実践的な、他者への「愛と奉仕」です。

確かに、現代社会では、最も受け入れがたい生き方かもしれません。

一番大切なのは自分です

自分のことだけで精いっぱいなのが現実です。

命令され服従し、競争する社会です。

こころは、どんどん閉塞して、本来あるべき元気なこころ、希望に満ちた未来が、打ち砕かれて行きます。

しかし、宮沢賢治は、打ちひしがれ、のたうち回りながらも、

みんなが幸せにならないうちは、本当の幸せはないと、言う。

いったいこれは、何を意味するのでしょうか?

それは、まさに、宮沢賢治の「愛と奉仕」のこころです

見返りを求めない利他の心

でくのぼうになりたいと

現代に、最も失われているこころ

忘己利他(もうこりた

無償の愛

これこそ、本当の「真実の愛」すなわち「利他」なのではないのでしょうか

☆  ☆  ☆

【シルバーバーチの霊訓より】第一巻P106

人生において、自分が役に立つということほど、大きな喜びはありません。

どこを見ても闇ばかりで、数えきれないほどの人々が、道を失い、悩み、苦しみ、悲しみにれ、朝、目を覚ますたびに、今日はどうなるのだろうかとという不安と恐怖におののきながら生きている世の中にあって、たったひとりでも心の平静を見出し、自分が決して一人ぼっての見捨てられた存在ではなく、無限なる愛の手に包まれているという霊的事実に目覚めることが出来たら、これはもう立派な仕事というべきです。他のいかなる仕事にも勝る大切な仕事というべきです。

地上世界のそもそもの目的は、居眠りをしている魂が、その存在の実相に目覚めることです。

あなた方の世界では、毎日夢の中で過ごしているいわば「生ける夢遊病者」で、いっぱいです。彼らは本当に目覚めていないのです。「霊的実相」については死んだ人間も同然です。そういう人たちの中のたった一人でもよろしい。その魂の琴線に触れ、小さくくすぶる残り火に、息を吹きかけて炎と燃え上がらせることが出来たら、これに勝る行為はありません。どう理屈をこねたみたところで結局は神の造形物―人間、動物、その他何でもよろしい―の為になることすることによって神に奉仕することが何にも勝る光栄であり、これに勝る宗教はありません。

「人のために尽くすこと」に勝る宗教はありません。病める人を治し、悲しむ人を慰め、悩める人を導き、人生に疲れ道う見失う人を手引きしてあげること、これは何よりも勝る大切な仕事です。

【注】  「霊的実相」とは、霊的真実。神の摂理です。

具体的には、「人は死なない」「永遠の生命」『神と人間の関係性」「自分とは何か」を知ることです。魂の覚醒です。神の火花です。そして、霊的真理から導き出される「人生の目的」は、ズバリ「霊的成長」であります。では、具体的には何なのか、それは「利他愛」の行使です。

もっと分かりやすく言うなら、「人のために尽くす」です。

よって、「宗教とは、人のために尽くす」です。

そして、それが、最大の喜びとなる世界です。

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